砂浜に向かって伸びるこれまた急な階段を慎重に下りていくと、その途中にはリディの家と同様岩壁に貼り付いたような家々がびっしりと並んでいた。中には突き出た岩を屋根のように利用している家や、その逆で不安定な岩場に建ち今にも崩れ落ちそうな危なっかしい家もある。 それらが全て海賊たちの住居になっているらしく、リディたちはこの入り江全体を“アジト”と呼んでいるようだ。 片側の岩山がもう片方の岩山の先端を覆うような形で入り江を作っているお蔭で、外海から見ただけではこんな場所があるなんてまず気付かれないだろう。 (……それにしても、視線が気になるなぁ) 階段を下りている間中ずっと、私たち一行はその家々から覗くたくさんの遠慮のない目にじろじろと見られていた。 気になったのは、それらが部外者への警戒や敵意のそれではなく、好奇の目だったことだ。中にはニヤニヤと笑うようなものもあって、私は男装した当初の目的を思い出していた。 (この格好のままで良かったかも……) その視線を見て見ぬふりをしながらグリスノートの後を追っていくと、結局砂浜まで下りてしまった。 下りとは言え脚はもうパンパンで、腿に手を着きまたもはぁはぁと息を吐いていると、そこでグリスノートが振り返った。 「長の前に、グレイスに会ってもらうからな」 「あぁ。わかっている」 セリーンが頷くと、彼は更に船へと続く桟橋へと向かった。 (ってことは、グレイスはまだ船の中にいるんだ) てっきりこのアジトのどこかにあるグリスノートの家にいるのかと思ったが、そういえばリディの家に彼の部屋があったことを思い出す。全然、帰っていないようだったけれど。 彼について桟橋を渡りながら、まさかまた乗ることになるとは思わなかった海賊船を見上げ、その大きさに改めて圧倒される。青空よりも近くにあの海賊らしくないスカイブルーの旗が静かにはためいていた。 そして再び海賊船に乗り込んだ私たち。グリスノートはやはりあの部屋に向かっているようだ。 「ブゥ?」 背後でラグの声がして振り向くと、先ほどまで彼の頭にいたブゥが私の横をすり抜けて行くところだった。 ブゥはセリーンとリディも追い越し、自室の前に立つグリスノートのすぐ後ろについた。 グリスノートがそれに気付いて瞬間ひやりとするが、彼は小さく舌打ちをしただけで視線を前に戻し自室の扉を開けた。 「グレイス、待たせたな」 グリスノートがそう声を掛けるのと、ブゥがそんな彼の傍らをすり抜け部屋に入るのはほぼ同時だった。――そして。 ――! 次の瞬間、アジト全体に響き渡るような美しいソプラノが私たちの鼓膜を震わせた。 聞き覚えのあるその歌声に息を呑み駆け足で部屋の中を覗き込めば、ブゥとグレイスが昨夜のようにあの止まり木の上で並んでくっついていた。 二匹とも目を細めとても幸せそうで、こちらの顔もつい緩みそうになる。 そういえば、いつもならブゥはラグの髪の毛にぶら下がってとっくに寝ている時間だ。 (ブゥもやっぱり、グレイスとの再会を楽しみにしていたのかな) 「ねぇ、あれのどこが狂暴なの? とっても可愛いんだけど」 私のすぐ前でリディが少々興奮気味に部屋の入口に立ち尽くすグリスノートに声を掛けた。だがグリスノートは急にその場にがっくりと膝を着くと、なんとか聞き取れるほどのか細い声を出した。 「兄貴?」 「俺の……俺のグレイスが、どこの馬の骨ともわからねぇへんちくりんなモンスターに心を奪われちまったあぁ〜〜っ!!」 頭を抱え、まるでどこかの頑固親父のような台詞を絶叫するグリスノート。 そんな彼の背中を見下ろしついポカンと口を開けていると、リディが焦るように私を見た。 (え?) だがその視線はすぐにお兄さんの方に戻る。 「ちょっと兄貴やめてよ恥ずかしい!」 「うるせぇっ! この悔しさがお前にわかるか!」 「わからねぇわよ! いいから早く立って!」 腕を引っ張りなんとかお兄さんを立たせようと奮闘しているリディ。 そんな中私はそっとラグの方を振り返る。彼はただじっとブゥたちの方を見つめていて、でも私の視線に気付きなんだよと言いたげに眉を寄せた。 「ううん、なんでもない」 私は慌ててそう首を振る。 (ラグは寂しくないのかなって、思ったんだけど……) 「お前の気持ちはわかったぜ、グレイス」 そんな低い声に向き直ると丁度グリスノートがふらりと立ち上がるところだった。 「兄貴、お願いだからもう」 心配そうな妹の傍らで彼は俯いたまま私たちの方をゆっくりと振り返り、そして覚悟を決めるように勢い良く顔を上げた。 「仕方ねぇからあのモンスター、俺が貰ってやるよ!」 ――。 一瞬、何を言われたのかわからなくて、一拍置いてから漸く私は声を上げた。 「え!?」 「何言ってんの兄貴!?」 ほぼ同時、リディが怒声を上げた。 「あの子はカノンたちの」 「だから俺があいつの面倒も見てやるって言ってんだ! グレイスの幸せのためにな!」 私は今度こそ勢いよくラグの方を振り返る。 「ラグ!」 「……」 ラグは何も言わない。やっぱりグレイスと並んで止まり木にいるブゥの方をただ見つめているだけだ。 「ねぇ!」 じれったくてその腕を掴むと、彼は驚いた様子で私を見下ろした。 「ブゥを貰うって言われてるんだよ! いいの!?」 いいわけないよね? そう口の内で続ける。 なのに、ラグはもう一度ブゥの方を見つめゆっくりと口を開いた。 「あいつが、あの鳥といたいのならいいんじゃねぇか」 「!?」 その言葉に私は目を見開いた。 信じられなかった。 だって、ラグとブゥは初めて会ったときからずっと一緒にいて、お互い相棒として信頼し合っているのがよくわかって、ブゥはラグといるのが当たり前で。 だから、信じたくなかった。 「お、話がわかるじゃねぇか」 グリスノートの声にハっとする。 「そいつだってああ言ってんだ。決まりだな」 「ちょ、ちょっと待ってください!」 私は慌てて向き直り叫んだ。 満足げな笑みを浮かべていたグリスノートの眉がぴくりと跳ね上がるのを見て、一瞬怯みそうになる。――でも、こんなの納得できるわけがない。 私はぎゅっと拳を握り、続けた。 「ブゥは、その子は私たちの大切な仲間で、だからそんなにすぐには決められません」 「そうよ!」 一緒に声を上げてくれたのはリディだった。 「ほんっと兄貴はグレイスのことになるとトンチキなんだから!」 「誰がトンチキだ!」 「トンチキでしょうよ! 逆の立場だったら大騒ぎする癖に!」 「グレイスが俺から離れるわけねぇだろうが!」 「わからないじゃないの! 現に兄貴の前では歌わなくなっちゃったんでしょ!?」 「それを言うなぁーー!」 また始まってしまった兄妹喧嘩の最中、ブゥがふわりと止まり木から飛び立つのが見えた。 「ブゥ?」 「あ?」 「え?」 ブゥはふわふわゆっくりとこちらに飛んでくると、グリスノートとリディの頭上を通過し、私の傍らを抜け、そしてラグの耳の横に留まった。よく見ればその瞳はもうほとんど閉じかけていて。 ラグが無言で結んだ髪を少し持ち上げるとブゥはいつものようにその結び目に逆さにぶら下がり、翼で自身を包んでそのまま眠ってしまったようだった。 「寝床の面倒も見てもらったらどうだ?」 ラグの後ろでそれを見ていたセリーンが溜息交じりにそう呟くのが聞こえた。 グレイスは止まり木の上で不思議そうに小首をかしげている。――と。 「……こっの、グレイスの純真を弄びやがって〜」 グリスノートが腰の剣に手を伸ばすのを見て焦る。 「そいつかグレイスか、はっきりしやがれーー!!」 「兄貴やめて!!」 リディが悲鳴を上げた、そのときだった。 「なんの騒ぎだ!」 突如、耳がキィンとなるような低音が船内に響き渡った。 びっくりして振り向くと甲板の方から誰かが下りてくる。 足音と、それとは違う硬い金属音とが交互に響き、そして現れた人物を見て息を呑む。 それは左目に黒い眼帯をつけ、杖をついた白髪交じりの男性だった。 体格は良いとは言えないがその浅黒い肌にはいくつもの傷痕が刻まれ、片方だけの眼光は鋭く一睨みされたら思わず足が竦んでしまいそうな、そんな迫力のある人だ。 「オルタード! 出てきて平気なの!?」 リディが心配そうな声を上げ、慌てて彼に駆け寄っていく。 ――この人が、オルタード? 海賊団ブルーの元頭であり、今は“長”と呼ばれている人物。そして。 (セリーンが会いたがっていた人) 彼女の様子をそっと伺えば、やはりその顔が強張っているように思えた。 リディに寄り添われながら、彼が私たちの前にやってくる。そのときに彼の右脚が義足だということに気が付いた。 「いやなに、グリスノートの奴が漸く嫁さん連れてきたと聞いてな」 (嫁さん?) 後ろでグリスノートが小さく舌打ちをするのが聞こえた。 「どれがその……」 私たちをぐるりと見回し、最後セリーンに視線を向けた彼の右目が大きく見開かれていく。 ふっとセリーンが微笑んだ。 「久しいな、オルタード。生きていてくれて嬉しいぞ」 そうセリーンが優しく声を掛けると、オルタードの唇が大きく震えた。 「ま、まさか、その赤毛は……セリーヌお嬢様!?」
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