「カノン、気分はどうだ?」

 キラキラと輝く紺碧の大海原を眺めていた私は背後から掛けられた声に振り向いた。

 赤毛を潮風に靡かせたセリーンが心配そうに首を傾げていて私は笑顔で答える。

「うん、ありがとう。大分慣れたかな。昨日よりは全然マシだよ」

 本当に、昨日と一昨日は最悪だったから。

 ――大型の帆船に乗ってヴァロール港を出てから3日、この世界で初めての船旅にワクワクしたのは最初の10分くらいなものだった。

 この世界の船の揺れること。更には水の腐ったような悪臭もあって出港して一時間もしないうちに私は酔ってしまった。しかし一度陸を離れてしまったからには目的地に到着するまで逃げ場もなくそれからずっと船室で横になっていたのだ。

 そして今朝になって漸く少しは身体が波に慣れてきたのか、こうして立ち上がり甲板で海を眺められるようになった。最初ずっと耳に付いていたギィギィと船体が軋む音も今はそこまで気にならない。

「あの男が術で風を送ればもっと早くにサエタ港に着けるのになぁ。全く融通の利かん男だ」

 ふんと鼻息荒くぼやいたセリーンに私は苦笑する。

 彼女の故郷であるエクロッグ近くのサエタ港まで順調に行けば7日だと出港時船長さんから教えてもらった。荒野を半月歩くのに比べたら大分楽に思えたが、あとまだ4日もこの船の上かと思うと今は揺れない陸の方が良かったかもしれないなんて考え始めていた。

 でもだからと言って、たかが船酔いくらいでラグに術を使ってとお願いすることは出来ない。この船には私たち以外にも多くの人が乗っているのだ。セリーンもわかっていて私のためにそんなふうに言ってくれているのだろう。……多分。

「ラグは?」

「まだ寝ているんじゃないか?」

「そっか」

 船室へと下りる階段に視線をやってから私はセリーンに言う。

「このまま順調に進むといいね」

「そうだな」

 今のところ天候には恵まれている。今もどこまでも澄んだ青空が広がっていて海風も心地いい。でも海の天気は変わりやすいそうだから油断は出来ない。

 この穏やかな海でさえ酔ってしまっているのにこれで海が荒れたりしたら……考えただけでまた胃がむかむかとしてきた。

「海賊もこのくらい立派な船ならば襲ってはこないだろうしな」

「……へ?」

 隣に立ったセリーンの言葉を聞いて私は思わず間抜けな声を出していた。

「かい、ぞく?」

「ん? あぁ、カノンは知らなかったか。この辺りの海には昔から海賊が出るんだ」

 事も無げに言ったセリーンに私はさーっと蒼くなって更に訊く。

「海賊って、あの海賊? 船で襲ってきて金品奪ってく?」

「あぁ、以前に何度か野盗に襲われたことがあるだろう。あれの海版だ」

 なぜだろう。確かに同じ賊ではあるけれど海賊と聞くと何やらとてつもなく恐ろしいものに感じられた。陸と違って逃げ場がないからだろうか。

「え、大丈夫なの!?」

「あぁ。この大きさの船ならば普通1stの傭兵も何人か雇っているはずだ。だから海賊もおいそれとは襲ってこない」

「そ、そうなんだ……?」

 いつの間にか力の入っていた肩を落として、それでもやっぱり不安でつい海をぐるりと見渡してしまう。

 と、セリーンがふっと笑った気がした。

「それよりも、面白い話を聞いたぞ」

「面白い話?」

 何やら悪戯っぽい目をして彼女は続けた。

「この辺りの海にな、幽霊船が出るらしい」

「ゆっ、幽霊船!?」

 思わず大きな声が出てしまっていた。

 だって海賊船ってだけでも怖いのに、更に幽霊船!?

 と、丁度そんなときだった。

「なんだ、元気じゃねぇか」

 いきなり後ろから掛かった低い声にびくっと肩が飛び上がってしまった。

 急いで振り返るとそこには相変わらず不機嫌そうな彼がいて。

「ラグ! はぁ〜、びっくりしたぁ。おはよう」

「治ったのか?」

「あ、うん。大分慣れてきたみたい。ありがとう」

 胃のあたりを摩りながら私は笑顔で答える。

 するとラグは呆れたように短く息を吐いた。

「ったく、うるせぇのがいないと思ったら、お前もとはな」

「え?」

「なんだ、あのメガネ船酔いするのか?」

 あぁ、アルさんのことかと私は別れてきた彼のことを頭に思い浮かべた。

 強そうに見えて案外そういう弱点があるところが彼らしいなと思わず顔が緩んでしまう。まだ離れてから数日だけれど王子たちと元気にしているだろうか。

「お前のがまだマシかもな。あいつは船の上だとまず起き上がれない。しかも大袈裟に唸るからとにかく煩い」

「そうなんだ……」

 船酔いの辛さは今も身に染みてわかっているので可哀想としか思えない。

「ん?」

 と、セリーンが眉を寄せた。

「あの男、まさか船に乗るのが嫌で残ったのではあるまいな?」

「えー、流石にそれはないと思うけど……」

 私が苦笑しながら言うとセリーンは「まぁ、奴のことなどどうでもいいがな」とさっさと話を切り上げその場を離れた。 

「カノン、何か口に出来そうなら食堂に行ってみるか?」

「あ、……うん、ちょっと食べてみようかな」

 船に乗ってからろくに固形物を口にしていない私はもう一度お腹を摩ってから答えた。今なら少し食べられそうだ。

「ラグも行こう」

「あぁ」

 そうして私たち3人は階段を下りて食堂へと向かった。



 船内の食堂は朝食をとる人たちで賑わっていた。その殆どがこの船の乗組員だ。

 ツェリウス王子が用意してくれたこの船はヴァロール港とサエタ港とを行き来する貨客船で私たちのような乗客よりも乗組員の人数の方が多い。皆揃いの帽子を被り顔を合わせれば笑顔で挨拶してくれる気の良い人たちばかりだ。

 ちなみに私たちが王子と関わりがあると知っているのは船長さんだけ。目立たないよう普通の乗客と同じように接して欲しいと王子の手紙には書いてあったらしい。ただ少しだけ上等な船室を用意してくれた。これがずっと船室で横になっていた私には有難かった。

 と、空いている丸テーブル席に腰かけた私たちに早速声がかかった。

「おう嬢ちゃん、具合はどうだい?」

 真っ黒に日焼けした逞しい身体。見るからに海の男という風貌のおじさんだ。確か一昨日ふらふらとしていた私に船尾の方が揺れが少ないぞと教えてくれた人だ。

「大分良くなりました。ありがとうございます」

 そう笑顔で答えるとおじさんも、にかっと笑ってくれた。

「そりゃあ良かった! 俺も船乗りになりたての頃はよく吐いたもんだ。船乗りってのはそうやって強くなる。――ほれ、あいつを見てみろ」

 指さされた先に視線をやると、乗組員の帽子を被ったまだ若そうな男の子が一人カウンター席に突っ伏していた。

「新人なんだがあいつも初日からあの調子で使い物になりゃしねぇ。だがまぁこの航海が終わる頃にはちったぁマシになってるだろう」

 ぴくりとも動かないその人を見ながら大変だなぁと同情しているとおじさんの視線が戻って来た。

「だから嬢ちゃんもどんどん吐いてりゃそのうち強くなるさ」

「あはは……」

 苦笑しているとセリーンがその男を睨みつけた。

「これから食事をとるってときにそういった話は止めてくれないか」

「おっと、綺麗なねーちゃんに怒られちまった。やぁすまんすまん、嬢ちゃん許してくれ」

「い、いえ」

「まぁ残り3、4日の辛抱だ。このまま海が荒れないよう祈っててくれ」

 私がはいと返事をするとおじさんは手を振って仲間たちの座るテーブルヘと戻って行った。

「全くこれだから……」

 セリーンがぶつぶつ文句を言っているとウエイターのお兄さんがやって来てパンとスープを手際よくテーブルに並べていった。頼まずともメニューは決まっているようだ。

 見るからに硬そうなパンだけれどスープに浸して食べればきっとお腹にも優しいだろう。

 私はいただきますと言って早速千切ったパンをスープに少しの間付けてから口に入れようとした、そのときだった。

「銀のセイレーン!?」

「!?」

 耳に入ってきたその大きな声にぎくりとして、スープの中にパンを落としてしまった。

 ラグとセリーンの鋭い視線が一瞬私の背後を見つめたが、すぐに二人とも何事も無かったように食事を再開した。……私のことがバレたわけではなさそうだ。

 だから大丈夫、落ち着けと自分に言い聞かせ、それでも息を潜め私はその会話に耳を傾けた。


「例の幽霊船が?」

「あぁ。ほら、その船から薄気味悪ぃ歌声が聞こえてくるって噂あったろう?」

「あー、あったあった」

「でな、最近どっかだかの港に銀のセイレーンが現れたらしいんだよ」

「え、銀のセイレーンって作り話じゃなかったのかよ」

「俺も聞いたときは驚いたさ。でだ、幽霊船の話を聞くようになったのも最近だろ? だからな、俺は幽霊船の正体はその銀のセイレーンなんじゃないかって考えたわけよ」

「おいおいやめてくれよ、俺今夜見張り番なんだって」

「夜風に紛れて歌声が聞こえてきたりしてな」

「勘弁してくれよ〜」


 そんな怯えた声と笑い声とが席を立つ音と共に遠退いていった。

 小さく息を吐いて緊張を緩めながらふと気が付く。

(そういえば前にもこんなこと……)

「セデのときといい、お前は動揺し過ぎなんだよ」

 ラグの呆れたような視線で思い出した。そうだ、セデの食堂。あの時もこうして銀のセイレーンの噂を背後で聞きながらハラハラしたのだ。

 あの頃に比べたら少しはこういった状況に慣れてはきたけれど。

「仕方ないじゃん。……でも、歌声ってほんとかな」

 身を乗り出して小声で言うとじろっと睨まれてしまった。

「気になるとか言うなよ」

「……」

 気にならないと言えば嘘になるので視線を外しながらゆっくりと体勢を直しスプーンを手に取った。

 幽霊船の正体が銀のセイレーンだという先ほどの人の推理は残念ながら外れているけれど、でも本当に歌声が聞こえてくるのだとしたら……。

「なんだ。カノンは幽霊船に会いたいのか?」

「え? ううん、会いたくないよ!?」

 セリーンに真顔で訊かれてしまい私は焦って首を振った。

 幽霊船なんて絶対にゴメンだ。あと海賊船も。

 このまま何事もなく、嵐に遭うこともなく、なるべく早くサエタ港に着いて欲しい。そう改めて願いながら私はスープに浸って大分柔らかくなったパンを口に入れたのだった。






戻る小説トップへ次へ

inserted by FC2 system