再び足を踏み入れた王の寝室は、王子の部屋と同じく蝋燭の灯りひとつだけが頼りなく揺れていた。 昼間とは違って中には王様と王妃様以外、誰もいないようだ。 (やっぱりクラヴィスさんもいないか……) 「ツェリウス、どうしましたか?」 聞こえてきた、か細い声。王妃様の声だ。 それでもその声は昼間よりも大分落ち着いているように思えた。 「王のことで話があってまいりました」 王子は王の眠るベッドへと近づいていく。 緊張を覚えながらもそれについていこうとして。 「オレはここにいる」 「え?」 その低い声に足を止め振り返る。 ラグは扉のすぐ横の壁にもたれた。 「なんで」 潜めた声で訊く。 「……オレは、あまり近づかないほうがいい」 そういえば昼間も彼はそんなことを言ってここへは来なかったのだ。 すると彼は不機嫌そうに指の背で自分の額を軽く叩き、やっと理解する。 (そっか、呪いのこと気にして) 「カノン、こちらへ」 「あ、はい」 王子の呼ぶ声に、私はラグの方を気にしつつもベッドに足を向けた。 王妃様は昼間見た時と同様に、王様の枕元に置かれた椅子に腰かけていた。 (いつも、遅くまでこうやって傍で看ているのかな) 視線をベッドに移すと、王様は静かに寝息を立てていてほっとする。 全身に広がる複雑な紋様が無ければ、呪いに侵されているなんて思えないほどその寝顔は安らかだ。 ぎゅっと楽譜の書かれた書物を抱きしめ、私は王子の隣に立った。 「王を治すためには貴女の力が必要です」 「え?」 王子の言葉をすぐには理解できなかったのか、王妃様が呆けたような声を出した。 「この者が教えますので、その通りにしてください」 「教える……何をですか?」 その瞳がこちらを見上げ、どきりとする。 やはり綺麗な人だ。そして、王子のお母さんとは正反対の美しさを持つ女性だと思った。 「あなたは、確かデュックスと花を持ってきてくださった」 私は慌てて頭を下げる。 「はい、私デイヴィス先生の助手をしています、華音といいます。よろしくお願いします」 「まぁ、デイヴィス先生の。わたくしに何を教えてくださるの?」 そのとき王子が首から笛を外し、王妃様に差し出した。 「この笛を」 ――その手に、躊躇いは無い。 「貴女がこれを吹けば、王の病は治るとわかりました」 「ふえ?」 もしかしたら初めて見たのかもしれない。 王妃様はそれを不思議そうに見つめ、ゆっくりと手に取った。 王子は続ける。 「信じられないかもしれませんが、まずは一度軽く吹いてみてください」 「吹く、ですか?」 不安げに訊いた王妃様に、私は突起部を指さし言う。 「ここを口に含んで、ふーっと吹くだけです」 「ふーっと、ですか……」 そう小さく繰り返し、王妃様は戸惑いの表情を浮かべつつも突起部を口に含んだ。そして、 ピィィー。 控えめな高い音が寝室に響く。 ごくりと喉を鳴らし王様を見つめる。 メロディになってはいなくても、きっと少しは効果があるはずだ。 同じように隣で父を見つめる王子の表情も真剣そのものだ。 と、口から笛を離し、王妃様がこちらを見上げた。 「綺麗な音。これで良いかしら?」 「――うっ」 答えようとしたそのときベッドで小さな声が上がった。 「!?」 「あなた!?」 がたりと椅子から立ち上がる王妃様。 王様の身に、驚くべきことが起こっていた。 全身が――いや、全身に浮かんだ紋様が、金色に輝きを放っていた。 「あなた!」 「待って」 王様に触れようとした王妃様を王子が止める。 「大丈夫。効果が出てきているだけです。――カノン」 「はい!」 内心かなり動揺していたものの、それ以上に取り乱した様子の王妃様を前にして腹が据わる。 (大丈夫) 王子の言う通り、効果が出ているのだから。 私は急いで手にしていた書物を捲っていく。 王様の身体から発せられる光のお蔭で、薄暗くともすぐにそのページを開くことが出来た。 “愛を伝えるもの”――そうタイトル付けられた曲。 いつからか忘れられていたメロディが今奏でられようとしている。 「ゆっくりで大丈夫です。王様のことを想いながら今のように吹いてください。そうすれば必ず、病は治ります!」 力強く言うと、王妃様は瞳を潤ませながらもしっかりと頷いてくれた。 「まずこの穴とこの穴を指で塞いでください」 震える指先が私の言う通りに動いていく。 間違えては大変だ。私は何度も楽譜と王妃様の指先とを見返し言う。 「その状態で吹いてみてください」 ピィーっと、最初の音が響く。先ほどよりも低い音だ。 そしてすぐに次の音に取り掛かる。 「次は、この指を――」 一音一音ゆっくりと笛が――王妃様がメロディを奏でていく。 王様に変化が現れたのは、時間をかけて漸くこの曲最後の音が部屋に響いた時だった。 「あ!」 思わず声が漏れた。 王様の顔に刻まれていた一筋の金の紋様が、まるで金粉が舞うようにして消えていったのだ。 「いいぞ!」 その歓声は王子のものだった。 「このまま続ければ、全ての紋様が消えるはずだ」 興奮した様子の王子に強く頷き、私は王妃様に視線を戻す。 「あとは今の繰り返しです。頑張りましょう!」 王妃様の顔にも希望の笑みが浮かんでいた。 「えぇ!」 それから、何度も何度も繰り返し同じメロディが王の寝室に響いた。 その度に王様の身体から紋様が消えていく。 王妃様の吹き方も徐々にスムーズになっていき、10回を超える頃にはもうすっかり“演奏”になっていた。 そうなってみてわかる。 (なんて、優しくてあったかい旋律) まさしく、愛のメロディだ。 ――そして。 「これで、最後だ」 王子が呟く。 王様の身体で唯一まだ光を放っていたのは額の紋様だった。 だがその輝きも王妃様が最後の音を吹き終わり笛から口を離すと同時にキラキラと舞うようにして消えていった。 そして再び蝋燭の灯りひとつだけの暗い部屋に戻る。 ごくり、と誰ともなく息を呑む音が聞こえた。 「あなた……?」 王妃様が小さく呼びかける。 すると、ぴくりと確かに王様の瞼が動いた。 「!」 「あなた!」 ゆっくりと、王様の目が開いていく。 その瞳が王妃様を捉え、 「……アンジェリカ?」 そう、愛する人の名を呼んだ。 「はい!わたくしです。ずっとここに居ります!」 涙声で王様に話しかける王妃様。 すると大きな手がゆっくりと王妃様の頬に触れた。 堪らず王妃様はその手を両手で強く握り締める。 「アンジェリカ」 もう一度その名を口にしながら王様は柔らかく微笑む。 (!) その笑顔はドナを前にしたときのツェリウス王子に驚くほど良く似ていた。 「心配を掛けたな。もう、大丈夫だ」 しっかりとしたその声音に、王妃様は感極まったように王様の首に抱き付く。 それを見て、私も吐息と共にずっと力の入っていた肩を落とした。 王様は助かったのだ。 良かったですね、そう言おうと王子を見て、口を噤む。 てっきり王子も安堵の表情を浮かべているものと思ったけれど。 (王子、緊張してる……?) 真一文字に口を結んだその視線の先では、嗚咽を漏らす王妃様の頭を王様が優しく撫でていて。 ――そうか、と気づく。 王様の呪いが悪化したのは、王子が笛を手放さなかったためだ。 王様もそのことは解っているはずだと、彼は言っていた。――罰を、受け入れるつもりなのだろうと。 しかしつい先ほど、お母さんの件は王子の思い違いであったと判明した。 (王子、どうするんだろう) と、そのとき王様が王子を見上げた。 はっきりと王子の顔が強張る。 「ツェリウス」 「は、い」 「ありがとう。……すまなかった」 その全てわかっているかのような感謝と謝罪の言葉に、王子が目を見開く。 でもすぐに彼は顔を伏せ、強く首を横に振った。 王様はそんな息子を見て、もう一度優しく微笑んだ。 ……おそらくは久しぶりの、それを思うと余りにも短い親子の会話。 でも、とてもあたたかく感じた。 私は扉の方にいるラグを見る。 その視線に気付いた彼に、私はこっそりとピースサインを送った。 王の寝室を出た私たち3人はすぐに王子の部屋に向かった。 王様が治ったのならきっと彼も――。 「アルさん!」 扉を開け放った、途端。 「ふっかーつ!」 「ぶ〜ぅっ」 すぐ目の前で晴れ晴れとした笑顔に迎えられ、私は彼の名を呼んだ口の形のまま固まってしまった。 一拍置いて後ろから盛大なため息が二つ。 「なんだよなんだよ〜誰も泣いて喜んでくんないのかぁ? この通りすっかり治って元の明るく元気なアル先生に戻ったってのに寂しいじゃねぇか」 紋様の消えた額を見せるように髪をかき上げる彼。 その傍らを、ブゥを頭に乗せたラグが呆れた様子で通り過ぎる。 「もう少し寝てりゃあ良かったんだ」 「どういう意味だよそれ〜」 「癪だが同意だ」 ラグとすれ違いにこちらに歩いてくるセリーンが鬱陶し気に耳を押さえていた。 「紋様が消えてからずっと一人でベラベラと……耳障りでかなわん」 「セリーンまで酷い!」 そんないつもの3人の会話に苦笑しつつも、心からほっとして。 「治って本当に良かったです!」 笑顔で言う。 するとアルさんは、いつもの彼らしくニッと笑ってくれた。 「カノンちゃんも、お疲れさん」 「はい!」 そして彼はまだ廊下にいる王子に頭を下げた。 「殿下、ありがとうございました」 「いや、迷惑を掛けたな」 「それで、クラヴィスは見つかったのか?」 私の隣に立ったセリーンが訊くと、王子は低く答えた。 「これから探しに行くつもりだ」 「あ、じゃあ俺がお供しますよ。護衛も復活です!」 「すぐに、平気なのか?」 「問題ありません。行きましょう」 「あ、私も」 疲労感はあったけれど、クラヴィスさんのことは気になる。 それにアルさんも本当に平気なのだろうか。 「大丈夫だよ。カノンちゃんはここでしばらく休んでて」 「でも」 と、ポンと肩にセリーンの手が置かれた。 見上げると彼女はいつもの冷たい口調で彼に言った。 「ここに来ることも考えられるからな」 「あぁ。一回りしたらすぐに戻ってくる。んじゃ、行ってくるな」 「気を付けて!」 アルさんは笑顔で手を振りツェリウス王子と長い廊下を進んでいってしまった。 「本当に平気かな、アルさん」 王子にはああ言っていたけれど、つい先ほどまでの彼を思うとやはり不安が残る。 「心配するだけ損だぞ」 声がしたほうを見るとラグが先ほどのアルさんのようにソファに仰向けになっていた。 (自分だって、さっきは心配していたくせに) そう思いつつ口に出せずにいると、セリーンが息を吐いた。 「一人で王子について行ったんだ。平気だということだろう」 「そう、だね」 彼女を見上げ、あれと思う。 口調はいつも通りなのに、廊下の先を見つめるその横顔がなんだかいつもよりも優しげに見えたのだ。 「それで、王は目を覚ましたのか?」 「う、うん!」 視線がぶつかり、私は慌てて頷いた。 (気のせいかな) 扉を閉め、ソファの方に向かいながら私は先ほどの様子を話していく。 王妃様が笛を吹いた途端、紋様が金色に光り出したこと。 一曲吹き終えるごとに身体の紋様が消えていったこと。――それを見て、王子が喜んでいたこと。 そしてすべての紋様が消えたとき、王様が目を覚ましたこと。 「凄かったんだよ。王妃様が笛を吹くたびに金色の光がぱーって消えていって」 私はその時のことを思い出しながら、隣に座ったセリーンに興奮気味に続けた。 「それに、その曲がまたとっても綺麗でね」 「歌うなよ」 頭の中に流れていた旋律がその一言でぴたりと止まる。 向かいのソファでずっと目を閉じて黙っているから眠ってしまったかと思いきや、その眉間にはたくさんの皴が寄っていた。 「……歌わないよ」 本当なら鼻歌くらい歌いたい気分ではあったけれど。 「私が城を離れている間のことはメガネから一通り聞いたが、あの笛とカノンの歌には似ている点があるそうだな」 「そうなの! それで、歌と一緒で曲を吹けばきっと王様も治るだろうってわかって。でもほんと、成功して良かった〜」 言いながら私は背もたれに寄りかかる。 ソファはふかふかで、目を閉じたらすぐにでも夢の中に入れそうだ。 私はそのままセリーンに顔を向ける。 「夜が明けたらお城中に王様の回復が伝わると思うから、きっと明日はお祝いムード一色だね」 すると彼女はふと気づいたように口に手を当てた。 「どうしたの?」 「いや。王が回復したとなると、王位継承の件はどうなるのだろうと思ってな」 「あ」 確かにそうだ。 現国王がこのまま続けられるのなら、次期国王を急ぎ決める必要もない。必要なくなったのだ。 「……あの宰相さん、このこと知ったらどう思うんだろう」 ――暗殺まで企てて。 少しの沈黙の後。 「まぁ、私たちが考えたところでどうなるものでもないが」 扉の方を見つめるセリーン。 「クラヴィスはどこに行ったのだろうな」 「うん。書庫の前で見張ってくれてるはずだったんだけど、戻ったときにはいなくて」 「……何もないといいがな」 私は頷く。 折角王様が治ったのだ。このまま何事もなく、笑顔で朝を迎えたい。 そういえばあとどのくらいで夜明けだろう。そう思い閉められた厚いカーテンに視線を移し、 「あれ?」 白いものが目に留まった。 「どうした」 「ブゥが」 指差し私はソファから立ち上がる。 ブゥがカーテンの近くをうろうろと飛んでいた。 「外に出たいのかもな」 「うん。ちょっと窓開けようか。私も外の空気吸いたいし」 ブゥにとって夜の散歩は食事でもある。 それにずっと閉め切っていたせいか、部屋の中には熱が籠っていた。 「いいんじゃないか」 ラグの方を見るがやはり目を開けてはくれず、特に文句はないということだろうと私は窓の方へ足を向けた。 「ブゥ、今開けるからね。外とっても綺麗なんだよ」 重いカーテンを少しだけ開ける。 やはり外はまだ暗かった。しかし月が出ているのか空はほんのりと明るい。 そういえば書庫塔でも小窓から淡い光が差し込んでいた。 鍵を外し、少しだけ窓を押し開けるとひんやりとした夜風が顔に触れ思わずひとつ深呼吸する。 と、ブゥが私の顔の横をすり抜けていった。 「いってらっしゃい。お腹いっぱいになったら戻って来てね」 「ぶぅ〜」 嬉しそうに鼻を鳴らし、ブゥの小さな体はすぐに夜の闇に紛れてしまった。 ふふと笑い、私も一歩バルコニーに降りる。 そこには控えの間と同じように白いテーブルと椅子が置かれていた。王子もここに座ってお茶したりしていたのだろうか。 空を見上げれば真ん丸に近い月が出ていて、やっぱりと嬉しくなる。 丁度そのとき心地良い風が吹き抜け、私は目を閉じもう一度大きく息を吸った。 「あっれぇー?」 唐突に。 そんな明るい声が聞こえて目を見開く。 「ふっふー」 その覚えのある高い笑い声に、心臓がどくりと脈打つ。 「見覚えのある顔が出てきたと思ったら、や〜っぱり」 穏やかな月明かりに影が差した。 「あの時、ラグ・エヴァンスと一緒にいたおねぇさんだ」 逆さまになった黒い少年が、月を背ににっこりと嗤っていた。
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