「じゃあ、行ってくる」

 うん。

「帰ってきたら、また歌ってくれよな」

 うん。

「じゃ、またな、華音」

 ――うん。またね、



「……響ちゃん」

「カノン?」

 その声にハっと目を開ける。途端、眩しさに目がくらみすぐにまた瞼を閉じてしまった。

 瞬きをしながらもう一度ゆっくりと開けていく。

 視界に広がったのは青と白の世界。青は空。白は雲の色だ。

(――そうだ。ここは空の上で、私は今ビアンカに乗ってて……)

 まだはっきりとしない頭でぼんやりと考える。

(それで、この眩しい光は、朝日……?)

 そこで私は一気に覚醒する。

「朝!?」

 声を上げて慌てて振り仰げばこちらを見下ろす優しい瞳があった。

「どうした、そんなにびっくりした顔をして」

 いつもは目立つその赤毛も淡い光に照らされ少し薄まって見えた。

「ごめんセリーン! 結局朝まで寝ちゃった」

 ずっと身体を支えてくれていたセリーンから離れ、私は謝る。

 ちょっと仮眠のつもりが、結局朝まで寝てしまったのだ。しかもセリーンを背もたれにして。

「昨日は一睡もしなかったんだ。仕方がない」

 それでもそう穏やかな声音で言ってくれるセリーン。

 ――確かに出来るだけ早く王子たちを城に送り届けるため、この2日間でビアンカから降りたのは食事時のほんの短い時間だけ。

 前の夜はどうにか眠らずにいられたが、昨夜は日が落ちた途端ついうつらうつらしてしまって、セリーンが危ないから休めと言ってくれたのだ。

 その言葉に甘えてちょっとだけ……と思ったのがいけなかった。

(パケム島のときといい、私寝坊し過ぎ)

 軽く自己嫌悪に陥りながら改めてセリーンにお礼を言う。

「ありがとう。でも本当にごめんね、みんな我慢してるのに私だけ……」

「いや、カノンだけじゃない」

「え?」

「あ、カノンちゃんのが先だったか」

 その声に振り返るとアルさんの笑顔があった。

「おっはよ! 良く眠れたみたいだな」

 彼も2日間寝ていないはずだが、その顔には全く疲れが見えなかった。

「おはようございます。あの、先って……」

 私は訊きながら、少し体を傾けアルさんの向こうを見る。

 誰か私の他にも寝ている人がいるということだろうか。夜行性のブゥがラグのポケットの中でお休み中なのはわかるけれど……。

 背中が見えたのはクラヴィスさんと、ラグの二人。

「あれ、ツェリウス王子は?」

 二人の間にいるはずの王子の姿がない。

 するとアルさんは意味ありげに笑って、前に向き直った。

「おーい、クラヴィス」

「はい?」

 アルさんが少し抑えた声で呼ぶと、クラヴィスさんはゆっくりと首を回しこちらに爽やかな笑顔を向けた。

「王子様はまだ寝てんのか?」

「えぇ、ぐっすり休まれていますよ。余程私の懐が寝心地良いみたいです」

 そのとっても嬉しそうな表情に思わず吹き出しそうになってしまった。

 アルさんがそんな私に「なっ面白いだろ?」 というような視線をくれた。

 あんなに嫌っている人物の胸でぐっすり寝ているなんて、本人は気づいているのだろうか。

 ここからではその寝顔は見えないけれど、なんだか微笑ましかった。

(起きたらすぐにクラヴィスさんに文句言いそうだけど)

「ところでカノン、“キョウちゃん”とは誰だ?」

「え!?」

 いきなり後ろからかかったその質問に、どきりと胸が音を立てた。

「な、なんで」

 振り向き訊くと、セリーンが無表情に続けた。

「ついさっき、寝言でその名を呼んでいたぞ」

「うそ!」

「覚えていないのか?」

 そう言われると、確かについ先ほど何か夢を見ていた気がして。

 その名の人物を頭に思い浮かべれば内容もすぐに思い出されて、顔が熱くなっていくのがわかった。

「え、なになに、なんの話?」

 アルさんまで興味津々という顔で訊いてきて、焦る。

「な、なんでもないです!」

「えー! その顔はなんでもなくないでしょー!」

「うるさいぞヘタレメガネ。女同士の話だ。貴様は前を向いていろ落とすぞ」

「もうとっくに俺の心はセリーンに落とされてるんだけどなーってスミマセン前向イテマス」

 セリーンの冷ややか過ぎる眼光に心が折れたらしいアルさんは肩を落としながら背中を向けた。

 ほっとしつつ少し可哀想な気もしていると、セリーンがこちらに顔を近づけ改めて訊いてきた。

「その顔は、男なのだろう?」

「え、えーっと、……うん」

 観念して頷く。

「やはりな。泣きそうな声だったがどんな夢だったんだ?」

 泣きそうな――違う、あの時私は、必死に笑おうとしていた。

「……昔の、夢」

「昔ということは、アレか。カノンの想い人か」

「お、想い人っていうか、」

 そんな言われ方をされると妙に照れ臭くて、私は苦笑しながら続けた。

「その人と別れるときの夢だったんだ」

「別れるということは付き合っていたのか?」

「違う違う! 本当にただの幼馴染。その人が遠くに行っちゃったときの夢」

 離れてから、ある日ふと気が付いたのだ。自分でも驚くほどの喪失感と、その意味に。

 だがそれからもう3年ほど会っていない。気付いた想いもいつしか淡い思い出になっていった。

 だからまさか今更あの時のことを夢に見るとは思わなかった。

(きっとこの間ドナとセリーンに話をしたからだろうな)

「また会いたいか?」

 優しく訊かれ、私は少し考える。

「うーん。……そうだね。会えたらやっぱ嬉しいかな」

「そうか。そのためにも早く元の世界に戻らないとな」

 元の世界に戻れても、会えるかどうかわからないけれど。

「うん」

 私が笑顔で頷いたときだった。

「見えてきたぞ」

 ラグの声が響いた。

「クレドヴァロールだ」

 見ると青い海の彼方に薄く大陸が見えた気がした。

「あれが、クレドヴァロール……」

 私がこれまでに立ち寄ったどの国よりも大きな国だというクレドヴァロール。だがその分未開の地が多いのだそうだ。

 今従者の胸でぐっすり寝ている少年がその広大な国の王子であることが改めて驚きだった。

(王子様なんて、普通なら話すことも叶わない存在だもんなぁ)

 丁度、そんなことを考えていたときだった。

「なっ、なんだ!? ここはどこだ、空の上!?」

 そんな慌てた声が前方から聞えてきた。

「お目覚めですか? 殿下」

 続いてクラヴィスさんの穏やかな声。

「クラヴィス!? あれ、ぼ、僕は……」

 どうやら先ほどの私のように、起き掛けで状況が呑み込めていないみたいだ。

「もうすぐクレドヴァロールですよ。漸く宮殿に戻れますね、殿下」

「――も、もし僕が寝そうになったらすぐに起こせと言ったはずだぞクラヴィス!」

「とても気持ち良さそうでしたので起こすのが申し訳なく……。あぁ、朝のご挨拶が遅れました。おはようございます、ツェリウス殿下。空の上でのお目覚めはいかがですか?」

「最っ悪だ!」

 案の定王子は機嫌悪く答え、ぷいと前を向いてしまった。

 きっと不覚と悔しがっているに違いない。

 この二人はずっとこの調子で、最初はそんなやりとりを聞いていてハラハラとしたが徐々にこれはこれで良いコンビなのかもしれないと思い始めていた。

 クラヴィスさんは王子にどんなに酷いことを言われても笑って受け止め……いや受け流していて、それでも王子のことを本当に大事にしているのが伝わってきた。

(王子もなんだかんだ言ってクラヴィスさんのこと信頼しているみたいだし)

 そうでなければいくら眠くてもこんな空の上でぐっすりと寝たり出来ないはずだ。――同じくぐっすりと寝てしまった私が言うのもなんだけれど……。

(そういう関係、ちょっとだけラグとアルさんに似てるかも)

 そんなことを考え、こっそり笑っているとラグがこちらを振り向き一瞬どきりとする。

 でも彼の視線は私よりも手前、クラヴィスさんに送られた。

「例の森まで案内してくれ。このまま真っ直ぐでいいのか?」

「えぇ……と、上空から見るのは初めてですので、もう少し陸が見えてきたらご案内出来ると思います」

「わかった」

 そしてラグはまた前方を見つめた。すっかりビアンカの操縦士だ。

 例の森とは、クレドヴァロールのお城の周りに広がる森のこと。その森の中に宮殿内部へと続く隠し通路の入口があるらしいのだ。――ちなみに王子はそこを通って城を抜け出してきたそう。当然のことながらその通路の存在を知る者はごく僅かであるらしい。

 王子たちの護衛はその隠し通路の入口までで終了の予定だ。

「でも、本当に大丈夫なのかな」

「ん?」

 私の小さな呟きに応えてくれたのはセリーンだった。私は後ろを振り向き言う。

「あの人たち、また襲ってこないかなって。向こうも空飛べてたし、待ち伏せされてたりとか」

 あの人たちとは、先日撃退したルルデュールたち暗殺者のことだ。

 先日のあの戦いで本当に諦めてくれたのだろうか。

 アルさんは大丈夫だと言っていたけれど、本当にこのまま何事もなく王子たちを送り届けられるのか、やはり不安だった。

「奴らはビアンカの存在を知らない。もし休みなく術で城に向かっていたとしてもおそらくはこちらの方が早いはずだ」

「そうそう。ま、もし別の術士がいたとしてもまた俺たちが追っ払ってやるし、大丈夫大丈夫!」

 アルさんも、もう何度目かそう笑顔で答えてくれたけれどやはり安心出来なくて。

「それに、本当にお城に着いたら安全なんでしょうか」

 これは王子たちには絶対に聞こえないように小声で。

「うーん、そればっかりはなんとも言えねぇけど、俺たちもそこまでは踏み込めねぇしなぁ」

 アルさんが苦笑しながら、同じく小声で言った。

「そうですよね……」

 アルさんとラグが頼まれたのはあくまでもその隠し通路に着くまでの護衛だ。それ以降はいくら私たちが心配しても仕方がない。

 それに私たちには私たちの目的がある。ずっと王子のそばにいるわけには行かないのだ。

 このまま何事もなくその場所に着けたら、そこで王子たちとはお別れになる。そして――。

 ふと自分の手元、ビアンカの背中に視線を落とす。

(ビアンカとも、そこでお別れなんだよね)

 掴んでいた硬い鱗を優しく撫でる。

 彼女がいなかったら、こんなに早く世界を移動できなかった。

 本当に感謝していた。ビアンカと、そしてライゼちゃんに。

(きっとビアンカも早く帰りたいよね、自分の国に)

 色々と心配してもきりがない。

 私はあと少しの時間、彼女との空の旅を堪能しようと思った。



 クレドヴァロール王国の城“ソレムニス宮殿”が見えてきたのはそれから間もなくのこと。

「わぁ……」

 小高い丘の上に建てられたその城の全貌を見下ろし、思わず感嘆の声が漏れていた。

 この世界でお城を見るのはランフォルセのグラーヴェ城に次いで二度目だが、荘厳で冷たい印象があったグラーヴェ城に比べ(牢屋に入れられたり死ぬ思いをしたりしたせいかもしれないが)、上空から見たその姿は“壮麗”という言葉がぴったりだった。

 白を基調とした宮殿の前には水を湛えた美しい庭園が広がり、堅牢な造りの城壁がそれらを護るようにぐるりと取り囲む。

 その全てが、朝日を受けキラキラと輝いていた。

「空から見ても美しいな、この城は」

 そう呟くように言ったのはセリーン。

(そういえば、セリーンは昔この国に来たことがあるんだよね)

 確かにこのお城は一度見たら忘れられないだろう。

 しかし、あの美しい宮殿の中には今、ツェリウス王子の父親であるこの国の王様が病に伏しているのだ。

 視線を上げこっそり王子の方を見ると、彼も眼下の我が家をじっと見下ろしていた。

「あれです。あそこに見える小屋。あの近くへお願いします」

 クラヴィスさんの声がして、その指さす先を見る。城を囲む森の中に、確かにぽつんと小さな屋根が見えた。

 そして、ビアンカはゆっくりと下降を始めたのだった。



「ふぃー、やっぱ暑ぃなクレドヴァロールは」

 宮殿を囲む城壁を更に囲むように広がる森の中。ビアンカから一番に飛び降りたアルさんが辺りを見回しながらぼやいた。

 ビアンカに乗っている間は気にならなかったけれど、森に降りた途端むっとした暑さに包まれた。パケム島のような海風も無く、少しでも歩けば汗が吹き出してきそうだ。

 上空から見たあの水を湛えた美しい宮殿の中はきっといくらか涼しいのだろう。

 そんなことを思いながら自分もビアンカの身体を伝いながら地面に降りる。彼女の硬い皮膚がひんやりと気持ち良かった。

 もうお別れだと思ったらなんだか離れがたくて、王子たちが降りたのを確認するとペタペタとその皮膚に触れながら頭の方へと向かう。

 すると、丁度ラグがビアンカに向かい何か話しかけているところだった。

「ラグもお礼?」

 近寄り訊く。するとラグはこちらを一瞥し、またビアンカに視線を戻した。

「こいつがいなけりゃこんな短期間で移動できなかったからな」

「だよね。ビアンカ、本当にありがとう。帰ったらライゼちゃん達によろしくね」

 彼女の長い首を撫でながらその赤い瞳を見上げる。

 だが、ビアンカはこちらを見てはいなかった。

(いつもなら舌を出してくれたりするのに……)

 私が小首を傾げていると横からも小さな溜息。

「降りてからずっとだ」

 彼女はただじっと一点を見つめていて、私もそちらの方に視線をやる。

 木々の向こうに見えたのは宮殿へと続く隠し通路があるという小屋。

 しかし、彼女はその小屋を見ているわけでは無さそうで。

「城に何かあるのか?」

 後ろからセリーンの声がした。

 そうだ。あちらの方向には城がある。まさかビアンカもあの美しい城に興味を惹かれたのだろうか。

 そんなことを考えたときだ。

「あ〜あ、やっぱこの暑さじゃティコは無理かぁ」

 聞こえてきた声は言わずもがな、アルさんのもの。

 パケム島でもらったティコのお菓子は結局すぐに食べてしまい、それからこの数日間で何度彼の口からティコという言葉を聞いたか知れない。

 隣からは怒気の籠った盛大なため息。しかしラグが呆れる気持ちも流石にわかってきていた。

 だがそんなアルさんのぼやきに、思いもよらないところから答えがあった。

「ティコならあるぞ」

 ツェリウス王子だ。

「へ?」

 アルさんもまさかそこから返事があるとは思わなかったのだろう、短く声を上げ王子の方を見た。

 この暑さに慣れているのか、涼しげな顔で王子は続ける。

「この国じゃティコは飲み物で、ティコラトールと言うんだ」

「飲み物!? ティコを飲むのか!?」

 アルさんの目がはっきりとわかるほどに輝いた。

 続いて、王子と同じくこの暑さを全く感じていないような爽やかな笑顔でクラヴィスさんが答える。

「はい。ここでは昔からティコは飲み物で、儀式のときなどに飲む大変貴重なものなのですよ」

「飲みたいか?」

 クラヴィスさんの言葉に被るように、王子がアルさんを見上げ訊いた。

(王子?)

 こんなふうに王子が積極的にアルさんに話しかけるのは初めてのこと。

 アルさんも流石に不思議に思ったのか、

「そりゃ、飲めるもんなら飲みたいですけどね」

そうこめかみ辺りを掻きながら曖昧に答えた。

「そうか。なら僕と共に宮殿に来るといい。飲ませてやる」

「え」

「殿下?」

 クラヴィスさんが声を上げる。

「確かに貴重なものだが、僕が言えばいつでも飲むことが出来る。いつでも、好きなときにな」

「殿下、一体何を」

 クラヴィスさんがもう一度声を掛けるも王子はそれを無視し、アルさんに真剣な眼差しを向け続けた。

「だから、お前僕の側近にならないか?」

「はい?」

 アルさんの目が点になり、周りの私たちもぎょっとそんな王子を見た。

「僕が王になるまで……いや、王になった先もずっとだ」

「殿下!」

 とうとうクラヴィスさんが声を荒げた。だが王子はじっとアルさんを見つめその答えを待っている。

「どうだ?」

「あ、あ〜、いや、ちょっと待ってください」

 アルさんが困ったように、でもどうにか笑顔で言う。

「今はこうして旅してますがね、一応教師やってますんで、急に言われましても……なぁ」

「オレに振るな」

 助けを求めるようなアルさんの視線を、ラグが冷たく一蹴する。

 と、王子は今度そのラグに視線を向けた。

「ラグ・エヴァンス、だったな」

「あ?」

「お前もだ」

「!?」

 皆が息を呑む。

「確かお前は、呪いについて知りたいと言っていたな」

 途端、ラグの表情が真剣なものになる。

「宮殿内には王族しか入れない書庫がある。その中に僕にかけられたこの古い呪いに関して記述された書物があった。お前の呪いに関して書かれたものもあるかもしれない」

「殿下! そんな大事なことを勝手に決められては」

「うるさいぞクラヴィス! 僕は王になると決めたんだ。その僕が良いと言っている」

 王子の視線が再びラグに戻る。

「その代わり、僕を護衛して欲しい。側近としてだ」

「わかった」

「ラグ!?」

 即答したラグに、アルさんが驚き声を上げた。

 私はただ茫然とそんな彼の横顔を見上げていた。




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