「カノン、そろそろ起きろ」

 セリーンの声に私はパっと目を開ける。

「ご、ごめん! おはよう」

 なかなか寝付けなかったせいで起きるのが遅くなってしまったみたいだ。

 私は慌てて起き上がる。

 服の下はすでにじっとりと汗をかいていた。

 それでもこの暑さの中眠れたのは、このテントが風通しの良い構造になっているからだろう。

 昨夜心地よい夜風の入ってきた地面との隙間から、今は陽の光が入ってきていた。

 寝室にライゼちゃんの姿はすでに無い。

「ライゼちゃんは?」

「あの娘なら……」

「おはようございます、カノンさん。良く眠れましたか?」

 ライゼちゃんが幕をめくり笑顔を覗かせた。ほぼ同時、空腹を刺激するいい香りが鼻をくすぐる。

 でもそれよりも、私は彼女の格好の方に釘付けになってしまった。

 その身に、昨日とはまるで違う素敵な衣装を纏っていたからだ。

 この国の民族衣装なのだろうか。この暑さにも関わらず手や足など露出を控えた服の構造と黒を基調とした色が、より彼女の素朴な美しさを引き立てていた。

 それはまさに、“神導術士”という名に相応しい姿。

「カノンさん?」

「う、うん、おはよう!」

「朝御飯が出来ましたのでこちらへどうぞ」

「え!? ありがとう!」

 にっこり笑って幕の向こう側へ戻るライゼちゃん。

(本当にしっかりしてるなぁ……)

 感心しながら寝癖の付いた髪の毛を束ねているときだ。

「カノン、昨夜は楽しかったか?」

「え?」

 セリーンがなんだか悪戯っぽく目を細めて私を見ている。

「あの男と逢引していたのだろう?」

 その、あまり聞き慣れない言葉に一瞬思考が停止する。

 だがすぐにその意味にたどり着いて。

「ちっ、ちがっ……!」

「なかなか戻らんから何度か探しに行こうかとも思ったのだが、邪魔をするのも悪いと思ってな」

 そんな私の反応を面白がるようにセリーンは続ける。

「しかしカノン、あの男はどうかと思うぞ」

「違う違う違う! 違うの!! そ、そんなんじゃなくて、その……術のことを教えてもらってたの!」

「……なんだ、違うのか」

 途端つまらなそうな顔をするセリーン。

(セリーンて、意外に恋愛話とか好きなのかも……)

 私は少し火照った頬に手を当てる。

 そういえば、昨夜もライゼちゃんの婚約者の話に反応していた気がする。

 と、そこでふと疑問が浮かんだ。

「セリーンて、小さいラグが好きなんでしょ?」

「あぁ。大好きだ」

 真剣な顔つきでセリーンはきっぱりと言う。

「大きなラグには全然興味ないの? 実は彼女いたりとかして……」

 今はこうして一緒に旅をしているラグだけれど、ひょっとしたらどこかに帰りを待っているような相手がいるかもしれない。……だが。

「全く持って興味が無いな。や、むしろあの男は大嫌いだ」

 やはりきっぱりと言われ思わず苦笑してしまう。

 彼女の中では完全に別の人物として認識されているようだ。

「そ、そうなんだ……。そういえば、ラウト君は? 丁度小さなラグと同じくらいだし、ラグみたいにぎゅーってしたくならないの?」

「あぁ、可愛いとは思うぞ。しかしあの子には到底及ばないな。あの可愛くないところが最高に可愛いんだ! とか言っていたら会いたくなってきてしまったではないか!! ……はぁ」

 肩を落とし盛大に溜息を吐くセリーン。

(相当ツボだったんだなぁ、小さなラグが)

 セリーンに抱きしめられ嫌がるラグを思い出してつい笑いがこみ上げてきてしまった。

「また会えると良いね」

「あぁ。いっそのこと本気であの男に切りかかろうかと思うのだが。死の危険が迫れば流石に奴も術を使うだろう」

「ややや、そ、それはやめてね! お願いだから……」

 そんな冗談だか本気だかわからないセリーンの言葉に冷や汗をかきつつ、私達はその部屋を出たのだった。


 藁を編んだ敷物の中央に料理が並べられていた。

 私達はライゼちゃんに促されその料理を囲むように腰を下ろす。

 クレープのようなパリパリの薄い生地と、魚のすり身らしきもの、生野菜がそれぞれの器に乗せられていた。

 見様見真似でまだ温かいその薄生地に魚のすり身と野菜を挟み、独特な香りのあるソースを付けて口に入れる。

「美味しい!」

「ん、美味いな」

「お口に合って良かったです」

「いつもライゼちゃんこうやって自分で料理してるの?」

「はい」

 にっこりと頷くライゼちゃん。

 目の前の料理を改めて見下ろして、私はほぉと息をつく。

(私中学の頃、料理なんてほとんどしたことなかったなぁ……。今もだけど)

 そんな自分がなんだか恥ずかしく思えた。

 私は続けて訊く。

「ヴィルトさんとラウト君は? ご飯どうしてるの?」

「多分、そろそろ……」

 と、丁度そのときだった。

「姉ちゃんおはよー! お腹減ったー!!」

 外から聞こえてきたその大声に、ライゼちゃんは恥ずかしそうに苦笑した。



 料理を持ってテントを出たライゼちゃんは、そのまま外でラウト君と何か話をしているようだった。

 私は口に残っていた料理を飲み込んで立ち上がり、テントの入り口から顔を出す。

「おはよう、ラウト君」

 声を掛けるとラウト君はすぐさま飛び切りの笑顔をくれた。

「お姉さん、おはよう!」

「おはようございます、でしょう? もう」

 注意するライゼちゃんに小さく笑って、訊く。

「ヴィルトさんの具合はどう?」

 昨夜は家に入ってすぐに寝てしまったとラグが言っていた。大丈夫なのだろうか?

「まだ、寝ているようです。後で、私も見に行ってみようと思います」

「そっか……心配だね。あ、ラグは? もう起きてる?」

「うん! 起きてるよ! あちーあちーってずっと言ってる」

 それを聞いて、即不機嫌そうなラグの顔が頭に浮かぶ。

「……ラウト君、ラグ、怖くない?」

「え? 全然怖くないよ。何で?」

 あっけらかんと言われて、私は答えに詰まってしまった。



「しかし人数が急に増えて大変だろう。確か村の中に宿や食堂があったと思ったが」

 戻ってきたライゼちゃんにセリーンが言った。

(あ、そうだよね。私達がずっとここにいたらライゼちゃんひとりが大変になっちゃう)

 だがその時急にライゼちゃんの笑顔が曇った。

「……いいえ。宿も、食堂も、今はありません。皆さんはお気になさらず、この国にいる間はずっとここに泊まってください。食料も、多くはありませんがブライトが定期的に運んでくれますので心配ありません」

 微笑みそう言ってくれたライゼちゃんだったが、どう見ても無理をしている感じだ。

 私はセリーンと顔を見合す。

 今は、ということはセリーンの記憶通り、以前はあったということだろう。

「……この国って今そんなに大変なの?」

 改めて訊く。

 するとライゼちゃんはとうとう笑顔を無くし俯いてしまった。


 ――彼女の口からゆっくりと紡がれるこの国の現状は、私が想像していたよりもずっと、酷いものだった。

 このフェルクレールトは大戦後、ランフォルセの支配下におかれている、という話はすでに聞いていたけれど、驚いたのは、この国の人たちへの扱いだ。

 体力のある若者は奴隷として各国へ飛ばされ、残った力の弱い者たちはこの国でしか採れない農作物を採るため、毎日過酷な労働を強いられているのだそうだ。


「私達一家は皆に大切に隠され、どうにか今まで見つからずにいます。こうして、私達のために食料も運んでくれるのです。……皆、生きるのにも精一杯だというのに……」

 辛そうに唇を噛むライゼちゃんに、私は言葉が出なかった。

「そこまでとは……」

 セリーンが眉を顰め言う。

「ランフォルセから派遣されてきている者はどのくらいいるんだ?」

「ひとつの村に、一人か二人です」

「な、なら! その人たち追いかえせば!」

 ラグとセリーンがいれば、そのくらい簡単に出来る気がしたのだ。

 だが、私のその言葉に二人は困ったような表情を浮かべた。

「そんなことをしたら、この国の民はもっと酷い目に合う。……最悪、今奴隷として働かされている者も含めて、皆殺しだ」

「!?」

 セリーンの低い声に、心臓をぎゅっと鷲掴みにされた気がした。

「今この国には戦える者がいないんだ。下手なことは出来ない。……私達もここにずっといるわけではないのだからな」

「ご、ごめん。私……」

 ものすごく軽率なことを言ってしまったのだと今更ながら自覚して私はライゼちゃんに謝る。

 でも彼女は優しい笑顔で首を振った。

「いいえ。このような国に無理を言って来ていただいて、謝らなくてはならないのはこちらの方です」

 ――私に、何が出来るの……?

 昨夜、歌のコツが掴めた気がして喜んでいた自分が、急に馬鹿みたいに思えてきた。

 倒れずに歌えたことが一体何になるというのだろう。

「私、ちょっと外行って来るね!」

「カノン?」

 心配そうなセリーンを振り返り言う。

「ほら、今日早速歌うかもしれないし、練習しとこうと思って!」

 心の動揺を悟られないように笑顔を作って、私はひとりテントを出た。

 ……ライゼちゃんの顔を見ることが出来なかった。



 鬱蒼とした高い木々の隙間から陽の光が注いでいる。

 目を閉じて耳を澄ます。聞こえてくるのは叫ぶような甲高い鳥の声と風にざわめく葉擦れの音。

 そんなむせ返るような自然の香りを胸いっぱいに吸い込む。

 そして、それはそのまま大きな溜息となった。

 ――勿論、歌の練習というのは口実だ。

 ライゼちゃんのいるあの場にいられなかった。

 私はきっと、不安を感じながらもどこか簡単に考えていたのだ。

 だからこの国の現状を聞いて急に自信がなくなってしまった。

 ……違う。怖くなってしまったんだ。

 昨夜のラグのセリフが蘇る。


 ――こいつに何が出来るってんだ!? アホらしい! そんなことで変わる世界なら、とっくに変わってる!


 あの言葉は、この国の……この世界の現状を知っているから出たもの。

 今ならラグがあんなに怒った気持ちが良くわかる。

 私は所詮、別の世界の、平和な国で生まれ育った人間。

 この世界のことは何も知らない。……知るはずが無い。

 そんな私がこの国を救いたいだなんて、とんだ思い上がりだ。

 そして結局、こうして逃げ出すように一人テントから出て来てしまった。

「最低だ、私……」

 そのとき、ふいに草を踏みしめる音が聞こえてきた。

 顔を上げると昨夜のみつあみの少年――ブライト君の姿が見えた。

 彼もすぐに私に気付いたようだ。落ち着いた足取りでこちらにやってくる。

 その手には昨夜と同じく弓がしっかりと握られていて瞬間ドキリとしたけれど、彼に昨夜のような切羽詰った雰囲気はなかった。

 おそらくライゼちゃんから言われた通り話を聞きにきたのだろう。

 彼は私の前まで来ると、深く頭を下げた。編んだ長い黒髪が背中からこぼれる。

「昨夜は申し訳ありませんでした。ライゼ様の恩人とも知らず、大変失礼なことを……」

「う、ううん! 誰だって急に大切な人がいなくなったら心配するよ」

 私は手を振って言う。

 ……正直、今の気持ちで彼と話をするのは辛かったけれど。

 ブライト君がゆっくりと顔を上げる。

「はい、ライゼ様はこの国になくてはならない存在。……本当に心配しました」

 不思議な雰囲気を持った男の子だと思った。

 昨夜あんなに取り乱した姿を先に見てしまったからだろうか。

 今は喋り方もとても落ち着いていて、笑顔はなくてもその温和な雰囲気がこちらに伝わってきた。

「申し遅れました。私はライゼ様の守り役、ブライトと申します」

「あ、私は華音といいます。よろしくお願いします」

 私も慌てて自己紹介し頭を下げる。

 だが次に顔を上げた時、彼の漆黒の瞳は真剣なものへと変わっていた。

「失礼ですが、あなた方はなぜこの国に? それに、ライゼ様の恩人というのは一体……」

 私は言葉に詰まる。彼の質問は尤もだ。でも。

(歌でこの国を救いに来ました、なんて言えるわけ――)

「その話ならお前の主人に訊け」

 私は驚いて声の方を向く。

 不機嫌そうなラグがこちらに歩いてきていた。

 昨夜のことを思い出し、私は気まずい思いで笑顔を作る。

「ラグ! お、おはよう」

 だがその視線はブライト君の方へ向いていて。

「オレたちは頼まれてここまで来たんだ」

「ライゼ様に、ですか?」

 ブライト君は訝しむように眉を顰めラグを見返した。

 身長差があるために見上げる格好になっているブライト君を見て私はハラハラする。

「そう! だから、私が説明するよりもライゼちゃんに訊いたほうが分かりやすいと思うんだ」

 フォローになったかどうか分からないけれど、とりあえず二人の視線が外れてほっとする。

「そうですか、わかりました」

 ブライト君は私達に一礼してテントの方へと足を向けた。

「……お前は、つい昨日自分を殺そうとした相手とよく平気で話が出来るな」

 言われて横を見上げると、心底呆れたようなラグの顔。

「だ、だって昨日のは誤解だったんだし」

 するとラグは大きく溜息を吐いてブライト君の後姿に視線を移した。

 と、彼の長い髪と一緒に黒い影が揺れる。

「あ、ブゥちゃんと戻ってきたんだね」

「あぁ」

「――き、昨日はありがとうね」

「…………」

 答えはない。やはりまだ昨夜のことを怒っているのだろうか。

 私は俯きぎゅっと拳を握る。

「ライゼ様、おはようございます。ブライトです」

 ブライト君がテントに向かい声を上げるのを聞きながら、私は小さく言う。

「私、この国のこと何も分かってないくせに、簡単なこと言って……ごめんなさい」

 するとまた溜息。

「で?」

「……え?」

 顔を上げドキリとする。

 こちらの気持ちを全部見透かしたようなラグの青い瞳。

「どうすんだ? とっとと諦めてこの国を出るか」

 その言葉にドクンと心臓が鳴る。

 突き刺すようなその視線に全身が強張る。

「オレとしちゃその方がありがたいけどな。あの野郎もいねぇってわかったんだ。オレはもうこの国に用は無い」

 その冷たい視線がブライト君やライゼちゃんのいるテントの方を向く。

「別に闇の民がどうなろうとオレの知ったことじゃねぇしな。……あいつらが弱いのがいけねーんだ」

「そんな言い方……!」

 反論しかけてはっとする。

(今の私に、反論する資格なんてない……)

 何もしないで、何もしないうちからこうしていじけている私には、そんな資格無い。

 と、その時テントの入り口からライゼちゃんが顔を出した。

 ブライト君に何かを言い、それから私を見つけてにっこりと微笑む。

 その無垢な笑顔を見て、私は下唇を噛んだ。

「まだ、諦めない」

「…………」

 私の声に、ラグが目線だけこちらを向いた。

「まだ何もしてないもん。……私に出来る限りのことはするって決めたんだから」

 言いながら、私はもう一度拳を強く握り締めた。

「まだ、諦めたくない」

 諦めるのは簡単だし、楽だ。

 でも、まだ何もしていないうちから諦めることはしたくなかった。

 ライゼちゃんは、こんな私を信じてくれている。

 そのまだ幼さを残した顔をまっすぐに向けて、彼女が良く通る声で私を呼ぶ。

「カノンさん! ブライトに話をしようと思います。こちらに来ていただけますか?」

「うん、わかった! 今行くね!」

 私はそれに、笑顔で応えることが出来た。

 ――横からは、またしても大きな大きな溜息。

 そんなラグの横顔をちらりと見上げ私はふと思う。

(もしかして、叱咤してくれたのかな)

 だとしたらさっきの辛らつな言葉はわざとだろうか。

 いや、彼の場合本心からの言葉のような気もする。

 本当に冷たい人なのか、実は優しいのか……、まだ出会って間もない私には分からなかった。

 どちらにしても今、私は迷いが晴れてとてもスッキリとしていた。




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