いつから彼に惹かれていたのだろう。


 最初はただ冷たくて、とっつきにくくて、怖い人だと思っていた。

 それが頼りになる人に変わって、素直じゃないだけで本当は優しい人だと知った。

 彼の過去を知って、彼を助けたいと思った。

 彼が笑顔を見せてくれて、涙が出るほど嬉しかった。

 多分、その頃にはもう私の中で彼の存在は大きくなっていたのだ。


「もしかしたらね、私エルネストさんに会わなくても帰れるかもしれないの」

 涙が落ち着いてからそう明かすと、セリーンはその瞳を大きくした。

「アヴェイラの船にいたときにね、ある歌を歌ったんだけど、一瞬向こうの世界に帰れた気がしたんだ」

「それは、本当か」

 こくりと頷く。

「向こうの友達と話せたの。手を差し伸べられて、でも私その手を掴めなくて……」

 自分の両手を見つめながら続ける。

「その手を掴んでいたら、帰れたかもしれないわけか」

「……まだわからないけど、もう一度歌ってみるのもなんか怖くて」

 セリーンが小さく息を吐いた。

「そうだったのか。……そのことを奴には」

 首を横に振る。

「言ってない。なんか、言い出しづらくて」

 ……多分、彼の反応が怖いのだ。

 もし、ならさっさと帰れなんて言われてしまったら――。

「ならカノンは今、奴のためにこの世界にいるのだな」

 その優しい声に私は目を見開く。

(ラグのために、ここにいる……?)

 改めて言われたらなんだか急に気恥ずかしくなってきてじわりと顔が熱くなった。

 でも素直に頷けた。

「うん。……ラグの呪いが解けるまでは見届けたいって思う。そしたらラグはすぐにストレッタに帰っちゃうだろうし、きっとこの気持ちにも踏ん切りがつくと思うんだ」

 ハハと苦笑する。

「ふむ。要するに、奴の呪いがこのまま解けなければいいわけだな」

「え」

 セリーンが口元に手を当て真剣な顔で頷いていた。

「そうすれば私もあの子に会えて一石二鳥ではないか」

 相変わらずの彼女にぽかんとしてしまう。そして彼女がここにいる本来の目的を思い出した。

(そっか。セリーンはラグの呪いの意味をまだ知らないんだ)

 でもだからと言って彼女にその意味を勝手に話すことは流石に躊躇われた。

「それに私だって、カノンと離れるのは寂しいからな」

「え……」

 優しい眼差しを向けられて、胸がきゅんとした。

「うん、私も。またセリーンにこうして会えて本当に良かった」

 笑顔で言ったその時だ。

「お食事の支度が出来ました。食堂へどうぞ〜」

 そんな主人の呼び声が聞こえてきた。

「よし、行くか」

 セリーンがベッドから立ち上がった。

「あ……私、顔平気? 泣いたのバレないかな?」

 立ち上がりながら目元をこする。

「もう暗いからな、大丈夫だろう」

「そう? ならいいんだけど」

 こういうときはこの世界に電気がなくて良かったと思う。明るい照明の下だったらバレバレだったに違いない。

「それにしても、案外平気なものだな」

「え?」

 ドアの前でセリーンがこちらを振り返った。

「正直、奴がこの街に入ったらもっと騒ぎになると思っていたが」

「あ……それが、一人だけラグのこと気付いている人がいるの」

 ――そうだ。彼女の話もセリーンにしておきたい。

 その名を口にしようとして。

「自警団の副長だろう」

 先に言われてびっくりする。

「奴のことを常に気にしている様子だったからな」

 セリーンも気づいていたのだ。

「そ、そう。マルテラさん。ラグと知り合いみたいで」

「知り合い? ……奴がそう言ったのか?」

「ううん、詳しくは聞けてないんだけど、ラグが先に声を掛けたの。生きていたのかって。でもマルテラさんはラグのことをすごく警戒してて」

 昼間のふたりの会話を思い出しながら続ける。

「でもね、ラグはマルテラさんに謝ったの。すまなかったって」

 それにはやはりセリーンも驚いたようだった。

「奴が、謝ったのか」

 私はしっかりと頷く。

「……そうか、わかった。私も気にしておこう」

 セリーンにこのことを伝えられて少しほっとした。



 階下におりると、まだそこにラグの姿はなかった。

 三又の燭台に灯りがともった窓際のテーブルにはすでにたくさんの料理が並んでいて、食堂はいい香りに包まれていた。

「これは美味そうだ」

 セリーンが嬉しそうに席に着き、私もその向かいの席に座る。

 それにしても驚くほどの量だ。ソーセージや骨付き肉など肉料理が多いが芋やアスパラガスに似た野菜もしっかり添えられていて朝ぶりの食事に喉が鳴った。

「主人、酒とジュースを頼む!」

「はーい、ただいま〜」

 セリーンの注文に元気な声が返ってきて、間もなくして先ほどの主人が泡で盛り上がったビールみたいなお酒とジュースを持ってきてくれた。

「お連れ様の分はいかがいたしましょう」

「あぁ、気にしないで置いておいてくれ。すぐに下りて来るだろう」

 主人は私の隣の席に今にも泡がこぼれてしまいそうなグラスを置き、ごゆっくりと言って戻っていった。

「さぁ、食べるぞ」

「うん」

 階段の方をちらっと見上げてから私もジュースの入ったグラスを手に取った。



 しかし、ラグはなかなか下りてこなくて流石に心配になってきた。

「ちょっと私声かけてくるね。寝ちゃってるのかもしれないし」

 立ち上がりながら言うとセリーンは料理を頬張りながら階段の方を見上げ渋々といった顔で頷いた。

 ……ここはラグにとって因縁の地で、本当なら長居したくない場所だということを思い出しながら階段を上がっていく。

 2階に上がってすぐの部屋の前に立ち、ドアを軽くノックをする。

「ラグ、大丈夫?」

 するとすぐに足音が近づいてくるのがわかった。

 ドアが開いて、暗がりの中現れたラグはなんだか少し困ったような顔をしていた。

「どうしたの? ご飯冷めちゃうよ」

「あぁ……だが」

 そうして彼は自分の胸元を見下ろし小さく続けた。

「ブゥの奴が……」

「え? ブゥ?」

 そういえばもうブゥが起きていてもおかしくない時間帯だ。

「まだ寝てるの?」

「起きてはいるんだが、ここから出てこようとしねぇんだ」

 彼の心配そうな声音にこちらも心配になってくる。

「ブゥ、どうしたの?」

「……ぶぅ〜」

 声をかけてみると、そんなか細い声が返ってきた。

「具合、悪いのかな」

「わからねぇ。ただずっと震えてんだ」

「震えて……?」

「おい! 折角の料理が冷めてしまうぞ!」

 と、痺れを切らしたらしいセリーンがドスドス足音を立てながら階段を上がってきた。

「それが、ブゥが調子悪いみたいで」

「ブゥが?」

 セリーンもすぐに怒りの表情を消し、ラグの小さく膨らんだ胸ポケットを見下ろした。

「ずっと震えて、出てこないんだって」

 すると彼女は眉を寄せ、小声で言った。

「……モンスターの狂暴化と、なにか関係があるんじゃないか?」

「!?」

 私は驚いてもう一度ブゥの方を見つめる。

 ――狂暴化……?

 確かにブゥもモンスターだけれど。

「ブゥもここの森の出身なんだろう」

 セリーンの言葉にラグが短く息を吐いた。

「それはオレも考えたが、狂暴化してるわけじゃねぇし、むしろ」

「怯えてる……?」

 ふいに口をついて出ていた。

 ラグが頷き、ポケットに優しく触れた。

「……森のモンスターたちも、何かに怯えているのかもしれんな」

 セリーンが神妙な顔つきで言うのを聞いて、昼間の狂暴化したモンスターたちを思い出す。

 てっきり何かに怒っているのかと思ったけれど。

(何かに怯えているんだとしたら、一体何に……?)

 そのとき廊下奥の窓が風にガタガタと揺れて、その向こうの真っ暗な闇を見てぞくりと身体に震えが走った。


 ――このレーネの地で今一体何が起きているのだろう……?






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