「起きろ」

「!」

 間近で聞こえた声にパっと目を開けると、すぐ目の前に朝から不機嫌そうなラグの顔があって飛び起きる。

「お、おはよう」

「……手」

「手?」

 自分の手を見て、彼の手をまだ握ったままだったことに気付く。

「ごめん!」

 慌てて両手を離して謝る。

 ――そうだ。昨夜、折角眠った彼を起こしたくなくて、手を握ったまま彼のベッドに上半身だけ預けて寝てしまったのだ。

 溜息を吐きながら起き上がる彼を見て、私は訊く。

「よく眠れた?」

「……お蔭さんで」

「良かった!」

 ほっとして言うとまたじろっと睨まれてしまった。

「良くねぇ。誰かに聞かれてたらどうすんだ」

「小さな声で歌ったし、大丈夫だよ」

「だといいけどな。ったく、オレが寝ちまったらいざってときに……」

 ぶつくさ文句を言いながらベッドを降りて支度をはじめた彼をじっと目で追いかける。

 確かに昨日よりも大分顔色が良く見える。

 窓のカーテン裾にぶら下がっていたブゥを自分の髪にくっつけて彼はドアへと向かった。

「そこで待ってるからな」

「うん」

 頷いて、私も支度しなければと立ち上がる。

「……ありがとな」

「え?」

 私の声と、ドアの閉まる音がほぼ同時に響いて――。

 ぽかんとそちらを見つめながら、徐々に顔が緩んでいくのを止められなかった。

 彼からの「ありがとう」は、なんでこんなにも嬉しくて胸がいっぱいになるのだろう。

(本当に、良かった!)

 きっと顔を赤くして待っているだろう彼を想像して、私は浮かれた気分で支度をはじめた。



 ――でも、そんな浮かれた気分も階下の食堂で一気に落ち込むことになった。



「聞いたかい? 今この辺りをラグ・エヴァンスがうろついてるんだとよ」

「!?」

 危うく、飲んでいた水が変なところに入るところだった。

 ガタイのいい男性がカウンター向こうの老主人に身を乗り出して話しかけていた。他に客は私たちしかいない。

 目の前のラグは全く動揺したそぶりなく、黙々と料理を口に入れている。

 私も普通にしていなければと残りのパンを千切って口に運んだ。

「初耳だが本当かい?」

「なんでも、俺はラグ・エヴァンスだと名乗って旅人から金を奪ってるって話だ」

 それを聞いて、一昨日会った野盗たちがすぐに頭に浮かんだ。

(あの人たち……!)

「そりゃあ、ただの野盗じゃないのかい?」

 思わず、大きく頷きそうになる。

「だがな、ちゃんと魔導術も使えるっていうんだぜ」

 主人が息を呑むのがわかった。

 男性は憎々しげな声で続ける。

「もし本物のラグ・エヴァンスだとしたらよ、今更なんのつもりだって話だよな。俺たちの生活をめちゃくちゃにしてくれやがって!」

 ドンっとカウンターを叩く音にびくりと肩が震えてしまった。

 店主がちらっとこちらを見る。

「まぁまぁ、朝っぱらからそんなに熱くなりなさんなって。レーネも大分復興してきてるんだろう?」

「まあな。生き残ったもんらであの頃のレーネを取り戻そうと頑張っちゃいるが、まだあちこち崩れたまんまで、あの頃のような量を採れるようになるにはまだ何年もかかるって話だ」

「そうか……何十年、いや何百年かけて築いてきたもんが一瞬で消えちまうんだもんなぁ……酷い話だ」

「全くだぜ」

 ガタンとラグが立ち上がって、行くぞと目で訴えられる。

 私は頷いて、残っていた水を飲み干し立ち上がった。


 なんて声を掛けていいかわからないまま、彼の後ろをただついていく。


 知っていたはずなのに。

 わかっていたはずなのに。

 実際にその悪意を目の当たりにして一気に心が沈み込んでしまった。

 ……違う。

(私の気持ちなんてどうでもいい)


 ――彼は、大丈夫だろうか?


 村を出て、また川沿いを進みながら先に口を開いたのはラグの方だった。

「昼頃にはレーネに着く予定だ」

「うん、わかった」

 その背中に、出来る限り普通に返事をする。

「目的はレーネの森の方だが、宛てもなく探すには広すぎる。街に入って少し情報収集するつもりだ」

「うん」

 出来る限り普通に頷く。

「また、さっきのようなことがあるかもしれない」

「!」

 彼はいつもと変わらない声のトーンで続ける。

「だが、お前は何も気にする必要はないし、何もする必要もない」

「……っ」

 何か言おうと口を開いたけれど、結局何の言葉も出てこなかった。

 ――昨夜、彼のために歌って、彼が眠れて、お礼を言ってもらえてすごく嬉しかった。でも。

(結局、私に出来ることは何もない……)

「……ただ、お前がいれば多少のカモフラージュになる」

 私は俯きかけていた顔を上げる。

(カモフラージュ……?)

 私がいれば、ラグの正体がバレにくくなるってこと……?

「だから、オレから離れるな」

「うん、絶対に離れない!」

 彼の声に被るように私は大きな声で答えていた。

 それに驚いたのだろうか、彼は少しの間を開けてからぼそりと言った。

「わかったなら、いい」

「うん!」

 暗くなっていた心に小さく灯りがともった気がした。

 私がそばにいるだけでラグの役に立てるのなら。

 彼がそれを望んでいるのなら。

(絶対に、離れない……!)

 もう一度心の中で繰り返して、私は強く拳を握り締めた。



 村を出てからずっとなだらかな登り坂が続いていて、遠く見えていた山々がもう目の前に迫っていた。

 標高が高くなってきたからか昨日より涼しくて歩き詰めで汗ばんだ肌に心地いい。

 ふと見ればもうお日様がてっぺん近くて、私は思い切ってその背中に声をかけることにした。

「レーネってどういう街なの?」

「……」

 案の定すぐには答えが返ってこなくて、慌てて続ける。

「ほら、情報訊くときに私また変なこと言っちゃったらマズいし、少しは知っておきたいなと思って」

 すると小さな溜息が聞こえた。

「レーネは、鉱山の街だ」

「鉱山?」

「あの山で貴重な鉱物が採れる」

 正面にそびえる山を彼は指差した。

「その採掘で栄えていた街だ」

 それを聞いて、今朝食堂で怒鳴っていたあの男性の言葉が頭をよぎった。

(あの頃のような量を採れるようになるにはって、そのことだったんだ)

 言われてみると確かに他に連なる山々とは違い正面の山は削られたようにその山肌が見えてしまっていた。

 ――鉱山の街レーネ。

 あの小さなラグが戦争中に足を踏み入れた街……。

 その姿を想像してチクリと胸が痛んだ。

「ありがとう、教えてくれて」

 今は大きなその背中にお礼を言う。

「そろそろ着く。一応言っておくが、すぐに金髪野郎の居場所が見つかりゃいいが、見つからない場合は連日野宿になると思っておけよ」

「そ、そうだよね」

 レーネの宿に泊まる気はないということだ。

 彼の気持ちを考えたら当然だしわかってはいたけれど、連日野宿という言葉を聞いてつい顔が引きつってしまった。レーネで少しでも何か良い情報が得られることを祈るしかない。

(でも、この近くにセイレーンの秘境があるかもしれないんだ)

 そしてそこに、エルネストさんがいる……かもしれないのだ。

「セイレーンの秘境かぁ。どんなところなんだろうね」

「さぁな。歌でも聞こえてくりゃわかりやすいんだけどな」

「はは、確かに」

 と、そこで急にラグが足を止めた。

「どうしたの? まさか、歌でも聞こえてきた?」

 軽く笑いながら彼の横顔を覗き込む。

「……」

「ラグ?」

 彼は瞳を大きくして前方を見つめていた。

 私も彼の視線の先を見たが特に今までと変わらない長閑な風景が広がっていて首を傾げる。と、彼は再びゆっくりと歩き始めそれについて行く。

 すると間もなく森への入り口が見えてきて、これまで歩いてきた街道がその奥へと続いていた。

(これが、レーネの森?)

「こんなに……」

「え?」

 彼は呆けたように呟くと足を速めた。そのまま街道を外れ緑の茂みの中へと入っていくラグを慌てて追いかける。

 彼はまっすぐに伸びる一本の木の前に立つと、その幹にゆっくりと手を触れた。まるで術の力を借りるときのような優しい目つきで彼はそのまま緑の天井を見上げた。

 私もその視線を追う。木漏れ日がキラキラと降り注いでいてとても綺麗だった。思わず目を閉じて深呼吸をすると、鳥たちの楽しそうな囀りが耳に入ってきた。

「オレが最後に見たのは、火の海だ」

「え?」

 不穏な言葉にどきりとして私は彼に視線を戻す。

 ざぁっとそのとき風が吹き抜けて森の木々が大きく騒めいた。

「だから全部、この森も全部消えたものと思っていた」

「……っ!」

 やっと、彼が何に驚いているのかわかった。

 以前、彼はレーネの森のことを『オレが消した』と話していた。レーネの街と共にこの森も消してしまったのだと。

 でも、消えてはいなかったのだ。こうしてこの森はもう一度芽吹いてくれたのだ。

 ここに来てそれがわかって、きっと彼は今とても嬉しいのだろう。その表情からはわかりにくいけれど、すごくすごく嬉しいのだろう。

「良かったね」

 私が言うと彼がこちらを見た。

「良かったね、ラグ」

 笑顔で言うと、彼は珍しく否定したりせずに頷いてくれた。

「あぁ」

 そうしてもう一度眩しそうに木々を見上げたラグを見て、あぁ、好きだなぁと思った。


(私、この人が好きだなぁ)


 自然にわき上がった気持ちに少し驚いたけれど、でももう抵抗したりしなかった。

 不思議なくらいにすんなりと、このとき私はその気持ちを受け入れることが出来た。






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