歌の練習はそのまま日が沈むまで続き、アヴェイラは窓の向こうが暗くなったことに気づくと明日の最終確認のため部屋を出て行った。 ひとりになってベッドの上で一息つく。 アヴェイラの歌はもう完璧だ。これが初めての歌とは思えないほどにその歌声は魅力的で。あとは明日グリスノートの前でも同じようにちゃんと歌えるかどうかだけれど。 (アヴェイラなら、きっと大丈夫) 私もグリスノートの反応が今からとても楽しみだった。 ――それにしても。 (あれは、夢……だったのかな) 今朝「埴生の宿」を歌ったときに束の間見えた幼馴染の姿。 海賊たちも故郷が見えたと言っていた。だとしたら私が歌いながら故郷の、あちらの世界の幻を見ても不思議ではない。それがきっと銀のセイレーンの力なのだろうから。 (でも、やけにリアルだったなぁ) 3年ぶりに見た幼馴染は少し大人になっていた。背も随分伸びていたように思う。 それに彼がいたあの部屋。今の彼の部屋など知るはずがないのに。 ……もしかして、あれは夢や幻などではなく現実で、一時的にあちらの世界に戻れたのでは。 そう考えた方が納得がいくほどにリアルだった。 ざわりと、胸が音を立てる。 (……もし、) もし本当にあの歌の力で戻れたのだとしたら。 私は自分の両手を見つめる。 あのとき、伸ばされたあの手を掴んでいたら……。 (今、もう一度あの歌を歌ったら、どうなるんだろう) どくどくと胸の音が大きくなる。 口を開いて、小さく息を吸って、あのメロディーをもう一度口ずさもうとして。 ふいに浮かんだのは、彼の不機嫌な顔だった。 「歌えないよ……」 口から出たのは歌声ではなく、そんな呟きだった。 だって、今私がこの世界からいなくなってしまったら、彼の――ラグの呪いが解けないままになってしまう。 セリーンにお礼を言えないままになってしまう。 エルネストさんだって、私を待っている。 “もしかしたら”という、ただの憶測に過ぎないのに。 歌うことが、出来なかった。 コンコンッ ノックの音にびくりと肩を竦める。 「俺です。フィルです。夕食を持ってきました」 その声に少しほっとして、私はベッドから立ち上がった。 扉を開けると、フィルくんが食事の乗ったトレーを持って立っていて私は笑顔でお礼を言う。 「ありがとう。アヴェイラは?」 「明日の打ち合わせが長引いているみたいで、代わりに俺が」 「そう」 トレーを受け取ると、フィルくんが口を開いた。 「明日いよいよですね。俺、皆に心配かけて謝らなくちゃ」 申し訳なさそうに目を伏せるフィルくん。 「ラグさんにも。俺の不注意のせいでカノンさんを危険な目に遭わせてしまったんで」 その言い方に少しの引っ掛かりを覚えて。 「では、俺はこれで」 「あ、フィルくん」 背を向けようとしたフィルくんを私は引き留めていた。 「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、今いい?」 「はい?」 目をぱちくりさせたフィルくんに私は小声で言う。 「朝、ラグが私を……って言ってたけど」 「?」 何のことかわからない様子で小首を傾げる彼。 「ほら、惚れてる、とかって。なんでそう思ったのかなって、思って……」 言いながらじわじわと顔が熱くなってくる。 (なんで私、こんなこと訊いてるんだろう) 「なんでって、え? だってラグさんとカノンさんってお付き合いされてるんですよね?」 さも当然のように言われて私はやっぱりと頭を抱えたくなった。トレーを持っていなかったらきっと間違いなくそうしていただろう。 「違うよ!?」 「え? そうなんですか? 俺、てっきりそうなのかと」 目を丸くしたフィルくんに、私は昨日と全く同じセリフを口にする。 「私とラグはただの旅の仲間で」 「でもラグさん、俺がカノンさんのことを「姐さん」って言ったら『俺の前で二度とその呼び方をするな』ってすごく怒って」 今度目を丸くしたのは私の方だった。 「それに……そう、丁度嵐の前の夜、ラグさんと船長が話してるのを俺聞いてしまって」 「!」 嵐の前の夜。――グリスノートから告白されて、ラグの言葉にショックを受けたあの夜だ。 フィルくんは急に興奮したように目を輝かせた。 「ラグさんすごくカッコ良かったんですよ! 船長に向かって『カノンにこれ以上近づくな』って。俺聞いてて痺れちゃいました! だから俺、実はおふたりはお付き合いされているんだとばかり……」 私が目を見開いたまま何も反応できないでいると、フィルくんはもう一度首を傾げた。 「ならラグさんはなんで……あっ!!」 そこで急にフィルくんは大きな声を出して自分の口を両手で塞いだ。その青くなった顔にははっきりと“マズイ”と書いてあって。 「す、すいません! 俺……今の全部聞かなかったことにしてください!」 ぺこりと頭を下げて、逃げるようにして彼は去って行ってしまった。 「……え?」 残された私はトレーを持ったまま、少しの間その場を動くことが出来なかった。
――カノンにこれ以上近づくな? 「いやいや、そういう意味じゃないって」 ゆっくりとベッドの方へと戻りながら、ひとり首を振る。 ……あのとき、ラグはグリスノートのいる甲板に上がっていった。その後の会話をきっとフィルくんは聞いたのだろうけれど。 テーブルにトレーを置いて、ストンと椅子に腰かける。 彼のことだから、フィルくんが思っているような深い意味はないとわかっている。 これ以上近づいて私が銀のセイレーンだとグリスノートにバレてしまうとマズイから。(結局バレてしまったけれど……)多分、そういう意味だろう。 (わかってるのに……どうしよう) 熱いほどに火照った頬を私は両手で覆う。 ――嬉しい。 そう思ってしまった。 これまでにも彼は「オレから離れるな」とかそういう気障な台詞を平然と口にしていて、今回もそれと同じだ。 そこに「惚れている」とか「好き」とかそんな甘い感情は無くて、ただ私がいなくなると困るから。 だってその直前、彼は私に“帰れなくても居場所が出来て良かったじゃないか”と他人事のように言ったのだ。彼は呪いが解ければそれでいい。それまでの関係なのだ。 だから勘違いしたらダメだ。 (ダメなのに。わかっているのに……) 涙が出そうなほどに、嬉しいと思ってしまった。 「ぶぅ〜」 そのときそんな小さな鳴き声が聞こえてブゥがふよふよとこちらに飛んできた。 「ブゥ、おはよう」 「ぶぶぅ」 そうしてブゥは私の頭に音もなく乗っかった。本当は相棒の頭が一番しっくりくるだろうに……そう思いながら私は声を掛ける。 「明日やっとラグに会えるよ。もう少し待っててね」 「ぶぅ」 「楽しみだね」 「ぶーぅっ」 元気な返事が返ってきて笑みがこぼれる。 「うん、私も楽しみ」 ガチャ、とそのとき扉が開く音がして私は慌てて姿勢を正す。アヴェイラが帰って来たみたいだ。 「悪かったね。食事フィルが運んでくれたんだって?」 言いながら部屋に入ってきた彼女に私は笑顔を向ける。 「うん、おかえりなさい」 と、アヴェイラは私を見て不思議そうな顔をした。 「……どうかしたかい、カノン」 「え?」 「顔が赤いからさ」 ぎくりとして私はまだ火照りの引かない両頬に触れた。 「そ、そうかな。大丈夫だよ」 「そうかい? じゃあ、改めて明日の話をするがいいかい? 食べながらでいいからさ」 「うん!」 そうしてアヴェイラは明日の作戦を話しはじめた。 この船は明け方にはアピアチェーレ港の沖に着くらしい。そこで後からやってくるだろうグリスノートたちの船を待ち伏せる。 「で、のこのこ現れたグリスノートの前であたしが歌を披露する。ふふっ、楽しみだねぇ」 また悪い顔で笑ったアヴェイラに、私は気になっていたことを訊く。 「私とフィルくんは……」 「そう、それなんだけどね。厄介なのはラグ・エヴァンスなんだよ」 腕を組みアヴェイラは今度は難しそうな顔をした。 「え?」 「カノンを攫ったあたしを敵視してると思うんだよね、絶対。この船を見つけた途端、攻撃してきてもおかしくない」 「そ、そっか」 以前ルバートで私が迷子になってしまったときヴィルトさんの頭を狙ってナイフが飛んできたことを思い出してしまった。 まさか私がこんなにアヴェイラと仲良くなっているなんて思わないだろうし、ラグもセリーンもきっとすごく心配してくれているだろう。そう考えたら胸がチクチクと痛んだ。 「でもあたしはあいつの前で歌いたい。その間誰にも邪魔はされたくない」 「うん。私も聞いてもらいたい。アヴェイラの歌」 「だからね、カノン。人質になっちゃくれないかい?」 「へ?」 アヴェイラの口から飛び出したまさかの提案に思わず頭が傾き、ブゥがころんと転げてきた。
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