雨が瞬く間に全身を濡らしていく。

 目を閉じて私は何か月ぶりかにあの歌を口ずさみ始めた。


  私は今 空へと舞い上がる

  高く 高く もっと高く


 この世界に来てすぐ、小さなラグと一緒にお城から逃げたときに歌ったあの歌。

 あのときはただ必死で、落ちてしまわないように歌うので精一杯だった。

 そして結局途中で失敗してラグに助けてもらうかたちになった。

 今ここでフィルくんを助けられなかったら、きっとラグは酷く自分を責めるだろう。

 彼は優しいから。

 たった数ヶ月だけれどいつも一緒にいて、いつも傍で彼を見ていてそれがわかってしまうから。

 だから今は、私が彼を助けたい。


 ――これ以上、彼が自分を責めることのないように。


  この雨を超えて あの旗よりも高く どこまでも高く

  大きなこの白い翼 羽ばたかせて


 背中が熱くなるあの感覚。

 あんなに激しく耳を打っていた雨音が歌声に掻き消えていく。

 目を開けると自分の髪が銀に輝いているのがわかった。

 そのことに安堵した瞬間、ふわりと風に持ち上げられるように足が甲板を離れた。

 あのときよりもうまく飛べる。そんな絶対的な自信があった。

 そのまま私の身体は一気に空高く舞い上がった。

 ――誰かの叫び声を聞いた気がしたけれど、今は気にならなかった。


 水中を泳ぐような感覚で船の上空から海の方へ移動していく。

 風は止んでいても、やはりまだ海面は随分と荒れていた。

 真っ黒な不安になる海の色。でも幸いなことに銀の輝きが明かりとなって、ある程度の範囲を照らしていた。

 これならばと私は徐々に高度を下げていきながら、フィルくんの姿を捜しはじめた。

(フィルくん、どこ……?)

 船を中心に少しずつ少しずつ範囲を広げていく。

 必死に見開いている目の中に、拭っても拭っても雨水が入ってくる。

 時間が経つにつれて高まっていく絶望感。

 でも諦めない。絶対に諦めたくなかった。

(お願い。フィルくん。無事でいて……!)

 強く願いながら私は歌い続けた。


 ふと、視界の端に波とは違う動きのものを見た気がした。

 祈るような気持ちでそちらへと向かう。そして。

「フィルくん!」

 波にもまれながらもこちらに力なく手を振る彼の姿を見つけ、私は思わず叫んでいた。

 途端、ガクンっと私の身体は重力に従い、しまったと思った時には遅かった。

「――ッ!!」

 私はそのまま暗い海へと格好悪く落下しブクブクと一度沈んで、しかしすぐに顔を出した。海面近くまで降りていたお蔭で、それほどの衝撃はなく済んだのだ。

「げほっ、ごほッ!」

 それでも海水を口からと鼻からも少し飲んでしまって苦しくて咳き込みながら私は必死にフィル君の方へ泳いでいく。

「フィルくん! 大丈夫!?」

「カノン、姐さん……?」

 彼はそう小さく答えてくれたけれどかなり衰弱しているように見えた。彼はこの冷たい海の中に一体どれくらいいたのだろう。早く船に戻って身体を温めてあげないと危険だ。

「私に掴まってフィルくん。皆のところに戻ろう!」

 手を伸ばし精一杯の笑顔で言うとフィルくんはその手をすぐに掴んでくれた。――歌う姿を見られてしまって拒否されたらどうしようと少し心配だったのだ。

 しかしそこで気が抜けてしまったのだろうか、フィルくんはふっと目を閉じ掴んでいた手からも力が抜けたのがわかった。私は慌ててその身体を抱きしめる。

 彼はぐったりとしていたが、ちゃんと息遣いが聞こえてきてほっとする。

 ――よし!

 あとはもう一度歌って、彼を船に連れて戻るだけだ。

 私は再び歌い始める。するとすぐに髪はまた輝いてくれた。

 フィルくんの身体をしっかりと抱きしめながら私は再び海面を離れ空へ舞い上がった。

 彼の重さは感じない。あのときだってラグと一緒に飛べたのだ。だから大丈夫。

 ふと見れば船から大分離れてきてしまっていた。

 そして先ほどよりも辺りが明るいことに気づく。分厚い雲から幾筋もの光が差していた。夜が明けたのだ。

 あと少しだ。船からこちらを見つめる大勢の人垣が見えた。そして何人かがボートに乗って海に出ているのが見て取れた。

 ――あぁ、きっと帰ったらラグにこってり怒られるだろうな。グリスノートやリディにもなんて説明しようか。そんなことが急に心配になってくる。

 ボートに小さなラグとセリーンの姿が見えて、そのときだった。


 ビュオッ!!


「――きゃっ!」

 急な突風に襲われ、私の身体は船とは直角の方向へと吹っ飛ばされた。――違う。強引に引っ張られた。

 この風に包まれたような感覚は知っている。これは風の術だ。

 ラグが戻ったのだろうか。でも、それならなぜ私の身体は船とは違う方へと向かっているのだろう。

 耳をつんざく酷い風音の中なんとか目を開けて向かう先にもう一隻の船を見た。

 あの特徴的なピンクの旗は。

(アヴェイラの船……!?)


 歌で抗いたくともこの強風の中では口を開けることすら難しくて、意識のないフィルくんを落とさないように抱きしめているので精一杯だった。

 アヴェイラの船がぐんぐん近づいてくる。そして船上に確かに彼女の姿を捉えた。

 船首に立つアヴェイラは私を見上げ、その口がにんまりと笑っていた。

(なんで、彼女が私を……?)

 もう一度話したいと考えてはいたが、この状況では嫌な予感しかしなかった。

 このままでは甲板に叩きつけられる! そう思いぎゅっと目を瞑った瞬間、ふわりと風が優しくなり私は慌てて目を開いて体勢を整えた。

 まず両足が甲板に着いて、フィルくんをその場に優しく寝かせたところで私たちを包んでいた風は霧散した。

 一先ずほっとしてペタンとその場に座り込むと、前方からカツカツと足音が近づいてきて目の前でピタリと止まった。

 恐る恐る顔を上げると、女海賊アヴェイラが仁王立ちになってこちらを見下ろしていた。腰ほどまである綺麗な長い髪が風に揺れて、いつの間にか雨が止んでいることに気づく。

 彼女は満足げに、またあの歌うような高笑いを上げた。

「よ〜っほほほほ! ようこそ、あたしの船へ。銀のセイレーン!」

「っ、」

 やはり彼女は私が銀のセイレーンだとわかった上で引き寄せたのだ。

「――ア」

「おっと、今は歌わないでおくれよ」

 彼女はスラリと腰から抜いた剣をこちらに突き付けてきて、私は口を噤んだ。

「別に殺しやしないさ。ただちょっとあんたに話があってねぇ」

(話……?)

「っと、その前に……なんだい、フィルじゃないか」

 彼女は私の傍らに横たわるフィルくんに視線を移し、その眉間に皴を寄せた。

 ――そうか、元々同じ仲間だったからフィルくんのことも知っているんだ。

「怪我はなさそうだね。お前たち! 今すぐこの子を介抱してあげな!」

「へい頭ぁ!」

 バタバタと数人の海賊たちがこちらへ集まってきた。

 よく見たら他にも10人くらいの海賊たちが遠巻きにこちらを見つめていた。

「こりゃいかん! すぐに温めねぇと」

「頼んだよ」

「へい!」

 一人のガタイのいい男性がフィルくんを抱え他何人かと船内へと急ぎ入って行った。

 きっと、これでフィルくんは安心だろう。

「カノン、と言ったっけねぇ?」

 視線を戻すとアヴェイラが腰を下ろし私をじっと見つめてきていた。その眼光の鋭さにごくりと唾を飲み込む。

「グリスノートは、あんたが銀のセイレーンだと知っていて嫁にしたのかい?」

「違っ!」

 思わず声を上げていたが、すぐ目の前に剣先があった。

「歌ったら、わかってるね?」

 こくこくと頷く。 

「お頭ぁ、大丈夫なんですかい……?」

 そのとき不安げな声が上がった。

「あぁ?」

「だって、その女、あの銀のセイレーンなんすよね……?」

 怯えたような海賊たち。久しぶりに目の当たりにしたその反応に小さく胸が痛む。……あのままグリスノートたちの船に戻っていても同じだっただろうか。

 だがアヴェイラはスっと立ち上がると急に彼らに向かって怒鳴り声を上げた。

「だからなんだってんだい! あたしだって同じ術士だよ!!」

「す、すいやせん!!」

 海賊たちが一斉に頭を下げると彼女はフンと鼻を鳴らし再びしゃがみ込んだ。

「あたしはね、あんたを恐れたりしないよ」

 彼女の意外な言葉に驚いていると。

「ただ、なんのためにあのグリスノートをたぶらかしたのかと思ってねぇ」

 その顔に怒りの感情が覗いて、私は焦ってぶんぶんと首を振った。

「違います! たぶらかしてなんか……私、嫁なんかじゃないです!」

「へぇ?」

「海賊をやめるためにふりをして欲しいって頼まれただけで!」

 必死に答えると、アヴェイラはじっと私の瞳を見つめてから口を開いた。

「それは本当だろうね? 嘘だったらひどいよ」

 剣先をちらつかせて言われ私は何度も強く頷く。

 ――プロポーズされたなんて口が避けても言えない。

 いや、しかしグリスノートは銀のセイレーンを殺したいほど憎んでいるのだ。バレてしまった今あのプロポーズは確実に無かったことになるだろう。

(だから、嘘じゃない!)

「……そうかい。なら信じよう」

 そうしてアヴェイラは再び立ち上がった。

「じゃあ、あの、帰して……」

「話があるって言ったろ。それまでは拘束させてもらうよ」

 彼女は仲間たちが持ってきたロープで素早く私の手首を縛り上げ、口も布でぐるぐると何重にも巻かれてしまった。

(またこれ……!?)

 いつか同じ目に遭ったときのことを思い出して涙が出そうになる。

「お前たち! このままアジトに戻るよ!」

「アイアイサー!」

 それを聞いて青ざめる。――アジト!?

 思わず立ち上がってまだ雲の多い夜明けの海を見渡し、なんとか見つけたグリスノートの船はもう米粒ほどに小さくなってしまっていた。

「用が済んだらちゃんと帰してやるさ。安心しなよ、銀のセイレーン」

 にっこりと機嫌良さそうにアヴェイラが笑いかけてきたが、笑い返せるはずもなく、私はまた呆然とその場に座り込んだ。






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