状況が飲み込めず呆然としている私に「お父さん」と呼ばれた彼が口を開く。

「子供達を助けてくれたこと、礼を言う」

 それはとても低く、耳に響く声だった。

 そして座ったままの私にその大きな手を差し伸べてくれた。

 私はおずおずとその手を取って立ち上がる。

 ゴツゴツとした硬い皮膚。……でも、温かかった。

「あ、ありがとうございます」

 姿勢を正してお礼を言うと、彼の感情の読みにくい細い目が少し和らいだ気がした。

「良かったねお姉さん! お父さんすっごく強いからもう大丈夫だよ!」

 あの時の少年がお父さんの足元で得意そうに言う。蹴られたお腹はもう平気なのだろうか。

 すると白髪の少女が後ろから軽くその頭を小突いた。

「違うでしょ、ラウト。まずはお礼を言いなさい」

「あ、そうだった! お姉さん、さっきはありがとうございました!」

 元気いっぱいの笑顔で言われ私の心はほんわか温かくなった。

 続いて少女が私をまっすぐに見上げた。その瞳はやはり赤い。

「本当にありがとうございました。見ず知らずの私達に……。そのせいで貴女が大変なことになってしまって」

「ううん! こっちこそ助けてくれてありがとう!」

 私が両手を振りながら二人に言うと、彼らはまたにっこりと笑ってくれた。

(かわいい……!)

 “闇の民”なんて呼ばれているけれど、彼らもこの国の人と何も変わらない。

 それが、なんだかとても嬉しかった。

 と、お父さんがくるりと踵を返した。

「ここにいるとまた追っ手が来るかもしれん。戻るぞ。……来い」

 最後は私に視線を向けての言葉だ。

 瞬間、どうしようかと迷う。

 ラグとはぐれたまま彼らについて行ってしまっていいだろうか?

 でも、彼らなら信じられる気がして、私はすぐについて行くことに決めた。

 何より、ここでまた一人になるのは嫌だった。

 私が「はい」と返事をすると彼はゆっくりと歩き初めた。

 ふと足元に倒れている兵士たちを見やると、どうやら気絶しているだけらしく胸が上下していて少しホっとした。



 3人はこの迷路のような町並みをちゃんと覚えているかのようだった。

 ここの住人ではないはずなのに……。

 そう疑問に思っていると、先を歩いていた子供たちが狭い小路に入って行った。続いてその道に入ろうとした、そのときだ。

「確か、連れがいると言っていたな」

 背後にいたお父さんが低く言った。

「え?」

 振り向いた瞬間、彼は持っていた棍棒を振り上げた。

 ――ガっ!!

 そんな音に驚く。

 棍棒に何かが深く突き刺さっていた。

 私は目を見開く。それは見覚えのあるナイフだった。

「ラグ!!」

 私は思わず歓声を上げて視線を移す。

 すぐそこの角にラグが立っていた。

 だが彼のその表情を見て、すぐに喜んでいる場合じゃないと慌てる。

「そいつをどこに連れて行くつもりだ!」

 凄まじい形相で怒鳴るラグ。

(完全に勘違いしてるよー!)

 棍棒に突き刺さったナイフを見て今更ながらにぞっとする。――彼は、お父さんの頭を狙ったのだ。

 私はラグに向かい叫ぶ。

「ラグ、違うの!」

 すると釣り上がっていた彼の眉がぴくりと顰められた。

「この人は私を助けてくれたの!」

 そしてそのとき子供達が不安げに小路から顔を出した。

 それを見て、ラグは更に疑問の表情を深める。

 お父さんは棍棒からナイフを引き抜くと、そんなラグに向かって放り投げた。

 それを器用に受け取ったラグが少し迷った後に鞘へと仕舞うのを見て、私はホッと胸を撫で下ろす。と、

「カノンはいたのか!?」

そんな声と共にラグの後ろから姿を現した人物に私は驚く。

「セリーン!」

 辺りは大分暗くなってきていたけれど、その赤毛はとても鮮やかに目に映った。

 彼女の瞳が私を確認して安堵したように優しく細められる。

 だがすぐにその視線は闇の民の親子へと移った。

「あの時の、」

「あ! あの時のカッコいいお姉さん!」

 ラウト君がセリーンを指差し嬉しそうに言った。

 そして今度は「人を指差しちゃダメでしょ」とお姉ちゃんにまた小突かれてしまった。

 私の横でお父さんが短く息を吐く。

「子供達を助けてもらった礼がしたい。……ついて来い」

 そう二人に向けて言うと子供達とともに小路に入っていってしまった。

 と、こちらに近づいてくる足音に気づき私は顔を上げる。

「全くお前は……いきなりいなくなるな! 何処見て走ってやがったんだ!」

 いつもの怒声が頭上から降ってくる。

 でも不思議と、今はそれが怖く感じなくて……。

「無事で良かったじゃないか。そんなに心配なら手でも繋いでいろ」

 その隣に立つセリーン。

 まさか、もう一度会えるとは思っていなかった。

 私が“銀のセイレーン”だと知っても、全く変わらないその態度がとても嬉しくて……。

「だ、誰も心配なんか……って!? お、お前また……っ!」

 何より二人が並んだ姿を見て、一気に気が緩んでしまったみたいだ。

 いつの間にか私の両目からはぼろぼろと涙がこぼれていた。

「貴様が頭ごなしに怒鳴るからだ。一人で不安だったろうに……」

 慌てて涙を拭おうとする私の頭をセリーンが優しく撫でてくれた。

 バツが悪そうに舌打ちをするラグ。

「違うの、ごめん。急に安心しちゃって……、でもどうして? どうやって会えたの?」

 私はどうにか涙の止まった顔を上げて二人に訊く。

 するとラグの表情がぴくりと歪んだ。

「……あの野郎だ」

「え?」

「エルネストという男が私の前に現れたんだ」

「エルネストさんが……!?」

 その名前を聞いた途端、ドキリと胸が高鳴る。

 と、ラグが気分悪そうに私の横を通り過ぎ、親子の入っていった細い道へ足を踏み入れた。

「ついて行くのか?」

「奴ら闇の民がどうやってこの国に入ったのか知りたい。……この辺りにも詳しそうだしな」

 そう言うラグに私も続き、セリーンがその後ろについた。

 この、もう決まったかのような順番が私をひどく安心させた。

 この道――隙間といった方が正しいかもしれない、は一人ずつでしか歩けないほどに狭い。

 見ると、体の大きなお父さんは肩を少し斜めにして進んでいる。

「でも良かった。もう会えないかと思ってたから……。あの時、兵士から助けてくれてありがとうございました!」

 私は妙にはしゃいだ気分でセリーンにお礼を言う。

「フン、言ったろう? 何処までもお前達についていくと……」

 ――聞くと、あの後セリーンはすぐに私達を追いかけたのだそうだ。

 でもこの複雑な町並みのお陰ですぐに立ち往生してしまった。

 そんなときにエルネストさんがあの幽霊のような姿で現れたのだという。

「今カノンが一人で逃げているから助けてやってくれと言われてな。方向を示してくれた」

 言われた通りに進むと、ラグとばったり出くわしたそうだ。

「はぁ、もう少し早かったらあの子の方に会えていたのにな、くそっ」

 その言葉を聞いて改めてセリーンだ、とまた嬉しくなる。

 同時に今まで彼女に嘘をついていたことを思い出した。

「セリーン、ごめんなさい。私、色々嘘ついてた。その……」

 後ろを振り向き思い切って謝罪すると、セリーンはふっと笑った。

「謝ることではない。まぁ、驚いたがな。まさか、カノンがあの“銀のセイレーン”だとは」

「……セリーンは、怖くないの?」

 緊張しながら訊く。

 私から逃げて行った街の人々。

 兵士達も、私の歌を恐れていた。

「怖い? カノンを怖いなんて思ったことは一度もないな。あの歌を聴いたときも、別段怖いとは思わなかった。……伝説はあくまで伝説だ。私は自分の見たものだけを信じる」

 それを聞いて胸のあたりがジーンと温かくなった。でも。

「それに、銀のセイレーンよりも恐ろしい者を、私は知っている……」

 低い声。その視線は私を通り越し、ラグの背中に向かっていた。

「ラグ?」

 私が小声で言うとセリーンは小さく笑いながら頭を振った。

「いや、何でもない。……そういえば、あのエルネストという男。お前達が捜していると言っていたのはあの男なのか?」

 視線の意味は気になったが、これ以上は話してくれない気がして私はその質問に答えることにした。

「うん。私が元の世界に帰るには彼に会わないといけなくて」

「そして、あの素晴らしい呪いを解ける者、ということか」

「素晴らしいとか言うな! 胸糞悪ぃ!」

 ラグがこちらを見もせずに怒鳴る。しっかりと聞こえていたみたいだ。

 つい苦笑が漏れそうになった、そのとき。

「しかしあの男、前にもどこかで見た気がするんだが……」

「え!?」

「!?」

 勢いよくこちらを振り返るラグ。

「どこでだ!!」

「いや、それが……全く思い出せん」

 がっくりと肩を落とす私達。

「私は今までにいろんな国に行ったからな。いちいち細かいことまで覚えていない」

「でもエルネストさん幽閉されてるって! 見たって場所限られると思うけど……!」

 思わず興奮してセリーンを見つめる。だが、

「幽閉? ……スマン、やはり思い出せない」

「ちっ……! 何か思い出したら即言えよな」

そう言ってラグはまた前に向き直ってしまった。

 でもこれは大きな収穫だ。

 セリーンが思い出せればそれに越したことは無いが、彼女の行ったことのある国に特定できる。 

 私は高揚した気分を落ち着かせるようにひとつ深呼吸した。

「――と、着いたみたいだぜ」

 ラグの声に前方を見ると、かなり錆びついたドアが開いていた。

 その中に背を屈めて入っていくお父さん。

 まさかそこが彼らの家――ということはないだろう。勝手に入ってしまっていいのだろうか?

 私達は顔を見合わせて、その建物に向かった。



 その白い家はもぬけの殻だった。

 家具も何一つ無いところを見るとやはり誰も住んでいないよう。

 もちろん照明器具もなく、ドアが閉まると一瞬視界が真っ暗になった。小さい窓がひとつだけあったが、外も暗いせいでほとんどその意味をなしていない。

「こっちだ」

 お父さんの声が奥の方から聞こえた。

 家具がないからか元々低いお父さんの声が綺麗に反響し、まるで地の底から響いてきたかのようだった。

 私はおっかなびっくりラグの背中についていく。

 奥の部屋には、ひとつだけ家具が残されていた。

 それはボロボロになった絨毯。

 その絨毯の端を先に部屋に入っていたラウト君が捲っていた。

 何をしているのだろうとラグの横について目を凝らし見ていると、床に小さなへこみがあることに気がついた。

 お父さんが腰を屈めそこに手を入れて引き上げる。

(隠し部屋!?)

 石同士が擦れる音と共に床が四角く開いていきドキドキと胸が鳴った。

「地下があるのか」

 セリーンも驚いた声を上げる。

「そうだよ。でも絶対内緒だからね!」

 ラウト君が得意げに笑ってその開いた穴に両足をぶらつかせた。

「ほら、早く行きなさい」

 お姉ちゃんに促されラウト君が体を反転させる。

 おそらく梯子か何かがあるのだろう、鈍い金属音を立てながら彼は闇の中に消えていった。

 次にお姉ちゃんが下りていく。

「俺は最後にここを隠す。先に行け」

 こちらを振り返って言うお父さんに、ラグが不機嫌そうに訊ねた。

「なぜオレ達に教えた」

 尤もな疑問だ。いくら子供達を助けたからと言って、こんな秘密を会ったばかりの私達にばらしてしまって良いのだろうか。

 だがお父さんは「下で話す」と言ったきり口を開かなかった。

 ラグは短く息を吐いてから穴に近付きその中を覗き込んだ。そしてこちらを振り向き言う。

「セリーン、そいつを頼んだぞ」

「あぁ」

 ――ラグはまだお父さんを警戒しているようだ。

 彼はセリーンが頷くのを確認すると子供達と同じように地下へと下りていった。

 私は穴に近づきそれを見下ろす。

 下は更なる闇が広がっていて、ラグがその中に呑まれていくようでごくりと喉が鳴ってしまった。

 だが丁度その時下がぼんやりと明るくなった。

 子供達が灯りをつけたのだろう。私は少しホッとする。

 ラグが階下に下りきるのが見えた。その部屋を軽く見回してからこちらを見上げる。

「いいぞ、下りて来い。落ちるなよ」

「う、うん」

 私は十分に注意しながら梯子に足を掛け下りていく。

 見るとその梯子は随分と錆び付いていた。

 大分前からここに取り付けられていたのだろう。

 折れないことを祈りつつ、私はどうにか地下に下り立った。

 そこは上の部屋と同じくらいの広さがあった。

 しかし床も壁も上とは違って土がむき出しだ。

 そして上には無かった家具がいくつか置かれていた。

 天井まである木棚。そしてテーブルと椅子。どれも酷く埃っぽい。

 テーブルの上には火のついた蝋燭が置かれていて、子供達の影がゆらゆらと揺れていた。

 その地下室は外と同じ潮の香りがした。

 セリーンは梯子を下りきるとそのすぐ横の壁にもたれた。

 石の扉を閉める鈍い音がしてほぼ同時、テーブルの上の蝋燭が大きく揺らいだ。

 ぎしぎしと音を立てて下りてくるお父さんをラグは横目で確認している。

 と、不意に足元から声が掛かった。

「ねぇ、お兄さん術士なんだね。さっき飛んでるとこ見たよ!」

 ラウト君が無邪気な笑顔でラグを見上げていた。

 ラグはびっくりしたように顔を引きつらせてから「あ、あぁ」と小さく頷いた。

 そんなラグを見て、私はこんな状況だというのに危うく笑いそうになってしまった。

(ラグって、子供苦手そう)

 ラウト君はにーっと笑って続ける。

「姉ちゃんもね、術士なんだ! お兄さんみたいに飛べたりはしないけど」

 ラグはテーブルの向こうにいるお姉ちゃんの方を見やった。

 だが彼女はその視線に気付いてすぐに目を逸らしてしまった。

(あれ……?)

 なんだか不穏なものを感じて私は頭に疑問符を浮かべる。

 ラグも怪訝そうに眉をひそめた。

 よく見ると彼女はとても綺麗な顔立ちをしていた。

 蝋燭の仄かな光がそんな彼女の美しさを更に浮き立たせている。

 きっと将来はかなりの美人さんになるだろうと予想できた。

(彼女の方がきっと銀のセイレーンっぽいんだろうな……)

 ラグが銀のセイレーンは絶世の美女だと言っていたことを思い出して、ふとそんなことを考える。

 と、ラウト君が何も言わないラグの顔をじっと見上げているのに気がついて私は慌てた。

「へぇ! そうなんだ。すごいね!」

 ラグの代わりに私が答えると、ラウト君はまた得意そうに笑った。

 彼はお姉ちゃんのことが大好きなのだろう。それがすごく伝わってきて自然とこちらも笑顔になった。

 ――そういえば、セリーンは小さなラグと同じ年頃のこの少年には興味がないのだろうか。

 ふと気になって背後のセリーンを見ると、ばっちり目が合ってしまった。

「ん? なんだ?」

「ううん! な、何でもない」

 と、梯子から下りたお父さんにラグは再び訊く。

「で、オレ達に何の用だ。ただ礼がしたいってわけじゃねーんだろ?」

 彼の、目上の人に対しても全く変わらないその失礼な物言いにハラハラする。

 だがお父さんは無言でその漆黒の瞳をお姉ちゃんの方へと向けた。

 その視線を受けたお姉ちゃんの赤い瞳が私達を見つめる。

「私が、全てお話します」

 小さく驚く。その真剣な表情は先ほどまでの“少女”のものではなかった。

 そこには思わず息を呑む、威厳のようなものが確かに在った。

「申し遅れました。私はライゼと申します。弟のラウトと父のヴィルトです」

「あ、私は華音です」

 なんとなく吃ってしまった。

 彼女の瞳が私だけに向けられる。

「カノンさん……。貴女が“銀のセイレーン”」

 その目が眩しそうに細められたのを見て、私はなぜか緊張を覚えた。

 そして、彼女――ライゼちゃんの次の言葉で私は更に驚くことになる。

「私は、私達は貴女に会いにこのランフォルセまで来たのです」




 ラグside

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