――ン。 ――華音。 まただ。 また、誰かの呼ぶ声がする。 お母さん? お父さん? それとも――。 ゆっくりと意識が浮上する。 でもなんだか眩しくて、身体もだるくて、なかなか目を開けることが出来ない。 ――私、いつの間に眠ったんだっけ……? 思い出しながら、身じろぎする。と。 「カノン?」 間近ではっきりと聞こえたその声にぱっと目を開ける。 視界に映ったのは見慣れた赤色。 「気が付いたか」 「セリー……っ」 出した声がびっくりするほど掠れていて軽く咳き込む。 「ほら、水だ」 差し出されたコップを身体を起こして受け取る。 喉を潤すようにゆっくりとそれを飲み干していき、はぁと息を吐いた。 「大丈夫か?」 「うん、ありがとう」 お蔭で今度はちゃんと声を出すことが出来た。 セリーンは私からコップを受け取るとすぐそこの丸テーブルに置いた。 「ここは?」 部屋の中を見回す。 ベッドが二つ並んだ部屋はどうやら寝室のよう。 ベッド脇の椅子に腰かけるセリーン以外に人はいない。 ほかの部屋と同じ大きな窓からは眩しいほどの青空が見渡せた。 「客室だ。なかなか起きないから心配したぞ。もう昼過ぎだ」 「え」 どうりで。このだるさは寝過ぎたとき特有のものだ。 「ご、ごめんね」 「謝ることは無い。昨夜は色々とあったからな。どうだ、もう眩暈はないか?」 そこで昨夜眩暈を起こして倒れかけたことを思い出す。 そしてラグに抱きかかえられたことも。 (そっか、あのままここに運んでくれたんだ) 瞬間またも顔の熱が上がりそうになって慌てて頭を振る。 「う、うん。大丈夫そう!」 「そうか」 そんな私を見て安堵の息を吐くセリーン。 でもその後すぐに彼女は言った。 「ならカノン、今からフォルゲンと話は出来そうか?」 「え?」 その名に驚く。 「フォルゲンさん、まだお城に……?」 てっきり他のお医者さんと共に街へ帰ったのだと思っていたけれど。 「あぁ、本人の意志で一人まだ城に残っていたんだ」 「一人で?」 「あぁ、奥方は昨日のうちに帰ったそうだ」 「じゃあ」 「あぁ。話すなら今だろうと思ってな。先ほどカノンを看てくれるように頼んだんだ」 そういうことかと理解して、私はこくりと頷く。 「うん。ちゃんと話さなきゃ。ありがとう、セリーン」 「いや。男共も心配している。ついでに声を掛けてこよう」 そう言って椅子から立ち上がったセリーンに訊く。 「二人は?」 姿の見えないラグとアルさんはどこにいるのだろう。 「メガネは王子の元だ。朝から謁見者がひっきりなしに訪れていてな。念のための護衛だ」 「謁見者……?」 「王の回復と、次期国王の決定を祝う者たちだ」 「次期……それって」 「あぁ。朝一で王が皆に伝えたんだ。次期国王はツェリウスに任せると」 「! ……そっかぁ。王子、良かったね」 思わず笑みが浮かぶ。 ドナと、そしてお母さんとの約束にまた一歩近づいたのだ。 「でも、王様になるのは当分先の話だよね」 「いや、それがそうでもないみたいだ」 「え?」 「現国王が王になったのが18のときだそうでな。同じ歳に王位を譲ると伝えたらしい」 「え、えっと……今王子何歳だっけ?」 そういえば聞いたことがなかった。 少し年下くらいかなと思ってはいたけれど。 「今15だそうだ」 「ってことは、3年後!?」 思わず声が大きくなってしまった。 「あぁ。本人も驚いていたようだ」 その顔が目に浮かんだ。 でもきっとその後は唇を引き締めしっかりと頷いたに違いない。 「3年などあっという間だ。これから忙しくなるだろうな」 「うん。でも王子ならきっと平気だよね。デュックス王子もいるし」 「そうだな」 「でもドナ、早くてびっくりするだろうな」 3年後、現れた王子に驚いて真っ赤になるドナを思い浮かべて小さく笑っているとセリーンが続けた。 「そういうわけで、メガネに伝えるのは後になるが、もう一人はすぐとなりの客室だ」 「ラグ?」 「あぁ……いや、今は違うな」 「え?」 「奴の名はダグだ」 「ダ?」 思わず間の抜けた声が出てしまった。 「ここにいる間、奴の名はダグ・エヴァンになった」 「……どういうこと?」 さっぱり意味がわからない。 「昨夜王子が奴のことをうまく誤魔化していたと言っただろう?」 私は頷く。 「騒ぎだした衛兵たちに王子が言ったのだ。彼の名はダグ・エヴァン。名前が似ているだけの別人だと。あの時奴は術を使わなかったからな。それでどうにかあれ以上騒ぎにならずに済んだわけだ」 そういえば王子は昨日偽名を考えておけと言っていた。 すっかり忘れていたが、王子なりに考えていたのかもしれない。 「ダグ・エヴァン……」 小さく声に出してみる。 確かに響きは似ているが、なんだか全くの別人のよう。 「まぁ、完全に信じたかどうかはわからないが。王子がそう言う以上衛兵は信じるしかないだろう」 「そう、だよね」 お蔭でラグは気にせず城内を歩けるのだから、王子には感謝だ。 それにしても。 (ラグ、隣にいるんだ) てっきり書庫塔にいるのではと思ったが、エルネストさんに昨夜ああ言われて本当に興味を無くしてしまったようだ。 と、そのときこちらをじっと見つめるセリーンの妙な視線に気付く。 「? どうしたの?」 「……念のために訊いておくが、奴とは本当に“仲直り”をしたんだな?」 「え」 その意味深な言い方に、ぎくりと顏の筋肉が強張った。 「奴と仲直りしたんだろう? 具体的にどんな直り方をしたんだ?」 どんな? どんなって……。 昨夜のことを瞬時のうちに思い出し、先ほど誤魔化せたはずの顔の熱が再び上昇する。 それを見たセリーンの頬がぴくりと引きつり、そのまま彼女は低い声音で言った。 「カノン。奴に一体何をされた?」 「――なっ、何もされてないよ!?」 思わず素っ頓狂な声が出てしまった。 それから少しの沈黙。 セリーンの疑いの眼差しがちくちくと突き刺さる。 「……そうか。では奴の方に訊くとしよう」 「え!?」 くるりと背を向け扉へと歩き出したセリーンを私は慌てて引き止める。 「ややややめて待ってセリーン!!」 「――で? 何をされたんだ?」 その低音に私は観念し、しどろもどろに答えていく。 「その、でも、ラグはただ私を慰めてくれただけで」 「…………」 「だから、別に変な意味はないと思うんだけど、その…………抱きしめられて、びっくりした」 「よし。代わりに私が一発殴ってこよう」 「へ!?」 何が「よし。」 なのか、再び背を向け扉の方へズンズン歩き出したセリーンのその言葉に焦る。 「いやいや大丈夫なのホントびっくりしただけだから!」 ぴたっとその足が止まる。 「……嫌ではなかったのか?」 「う、うん。嫌っていうか……」 むしろ。 「最近、ラグに嫌われてるのかなって思って落ち込んでたから、ちょっと……嬉しかった、かな」 言いながら気が付く。 ――そっか。私、嬉しかったんだ。 さすがに嫌いな相手に、あんな慰め方はしないだろう。 だから。 「うん。嫌われてないってわかって、嬉しかったの。だから、私の中では仲直り」 そして私はへらっと笑う。 「……」 それでもまだ納得いかないという顔のセリーンに、私は更に昨夜のことを話していく。 「それにね、ラグ笑ったんだよ! 助かった、ありがとうって、お礼も言ってくれて。本当にびっくりしたけど、嬉しかったなぁ。セリーンにも見せてあげたかったよ」 思い出しながら少し興奮気味に言うと、セリーンがふうと諦めたような長い溜息を吐いた。 「カノンがそう思ったのならいいが。……一応奴も男だからな。気を付けるんだぞ」 「だ、大丈夫だよ!」 彼に限ってそれは要らない心配だろう。断言できる。 笑う私に彼女はまだ何か言いたそうに口を開いたが、そのままもう一度短く息を吐いて扉に手を掛けた。 「待っていろ、奴に声を掛けてからフォルゲンを呼んでくる」 「うん!」 ぱたりと扉が閉まって私はふぅと肩を落とす。 (こんなに長い間一緒にいるのに、セリーンはまだラグのことそんなに良く思ってないんだなぁ) 彼の小さな姿が好きだから、その反動なのだろうか。 セリーンも昨日のあの笑顔を見たら少しは……いや、むしろその笑顔のまま小さくなれと言いそうだ。 苦笑して、私はもう一度昨日の彼の笑顔を思い出してみる。 昔は良く笑っていたという彼。そんな本来の彼に少し近づけたような気がして、やっぱり嬉しかった。 ……フォルゲンさんに、まずはなんて切り出そう。 ライゼちゃんの知り合いだと言ったらきっと彼は驚くだろう。 それよりもビアンカがすぐそこにいると聞いたほうが驚きは大きいだろうか。 そして、……彼はどうするだろう。 奥さんのこともある。 遠い地にいる彼女の可愛らしい微笑みを思い出し、私はぎゅっと拳を握った。 そのときだ。トントンと扉が軽くノックされた。 「はい?」 反射的に返事をする。 もうセリーンが戻ってきたのだろうか。 少し間を開けてガチャと扉が開く。 (!) 現れたのはラグだった。 先ほどあんな会話をしたせいか、なんだか妙に緊張してしまう。 彼は何も言わず扉を閉めるとそのすぐ横の壁にもたれて腕を組んだ。 「お、おはよう」 もう“おはよう”という時間帯ではないが、それしか思いつかずにそう声を掛ける。 すると彼はこちらに視線を向け口を開いた。 「具合は?」 「え? あ、もう平気。ただの寝不足だったんだと思う」 ハハと苦笑しながら続ける。 「昨日はありがとう。ここまで運んでくれて。私いつの間にか寝ちゃったんだね」 「寝不足だけじゃねえだろ」 「え?」 「昨日“歌”を使っただろう。もしあれが完全に成功していたとしたら、結構な力を消耗したはずだ」 ルルデュールにラグを忘れて欲しくて歌った歌。 あのときはただ夢中で、一心にそれだけを願って歌ったけれど。 「まぁ、成功していたらの話だが」 もう一度そこを強調されてもう一度苦笑する。 ――ドナのおばあちゃん、セイレーンであるノービスさんも自分のことを忘れさせるためにラルガさんに歌を歌った。 その歌の力は彼女自身が亡くなるまで続いた。 それが完全に成功したということなら、確かに自信はない。 「でもとりあえず今のところは追いかけてこないし、良かったね」 私が笑いかけると彼は急に眉間に皴を寄せこちらを睨み見た。 ぎくりとする。 ひょっとして、今更歌ったことを怒っているだろうか。 (昨日はお礼を言ってくれたのに……?) 「……前から言おうと思ってたんだけどな」 「う、うん?」 肩を窄めながら首を傾げると彼は口を開けたまま一瞬固まり、それからゆっくりと視線を外して小さく言い直した。 「いや、……前から言ってるんだ」 「え?」 良く聞き取れず訊き返すと、改めて彼が私を見た。 「お前は、他人のことより、もっと自分のことを考えろ」 「!」 その意外な言葉に、私は驚く。 「じゃねぇと、いつかお前が……」 そこで一旦、彼は言葉を捜すように視線を彷徨わせた。 私はじっとその続きを待つ。 「……お前が、いなくなったら……、困るのは、こっちなんだからな!」 最後はいつものように怒鳴るような口調で言われ、私は再び身を竦ませる。 ――でも、そんないつもの彼の言葉が、自分でも不思議だったが以前よりもずっと嬉しく感じられて。 「うん、気を付ける」 私は笑顔で答えた。 すると彼はなんだか拍子抜けしたような顔。 「……本当に、わかってんのか?」 「うん!」 「わかってねぇだろ」 疑わし気な目に、私は笑顔のまま続ける。 「わかってるよ。ラグ、私がいなくなったら困るんでしょ?」 「――こっ」 なぜかそこで彼の顔が赤く染まった。 「オレは別に困らねぇよ! 呪いが解けなくて困るって言ってんだ!」 「だからそれって……」 「あ〜っもういい! とにかく他人のことばっかり考えてんなってことだ!」 そう怒鳴ると彼はぷいとそっぽを向いてそれきり黙ってしまった。 そんな彼を見て、なぜだか急に可笑しくなってきて私はこっそり声を殺して笑った。 ――良かった。本当に仲直りできたみたいだ。 怒鳴られて仲直りなんておかしな話だけれど。 昨日の暗い気分が嘘のように、今私の心は窓の向こうの空のように晴れやかだった。 そして、丁度そのとき再び扉がノックされた。
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