「なに!?」 私たちは顔を見合わせすぐに部屋を出た。 階段の手摺から身を乗り出すようにして見下ろすと、入口の扉の方からゆっくりと後退ってくるアルさんと王子の姿が見えた。 そして彼らを中央の階段へと押し戻すように姿を現した人物。それは。 「うそ、あれって」 「デュックス王子の側近だな」 ラグを抱えたまま横に並んだセリーンの低い声音。 ――そう、デュックス王子に「フィー」と呼ばれている、あのフィグラリースさん。 彼を先頭に数人の兵士たちが、王子とそれを守るように前にいるアルさんに剣先を向けていた。 「なんで……!」 「行くな!」 階段を下りようとした私をラグの厳しい声が止めた。 振り返ると彼はセリーンの腕の中でこちらを睨んでいて。 「お前が行ってもしょうがねーだろ。あんな奴ら、アルが一人でなんとかする」 確かにそうだけれど……。 セリーンも動く気はないようで、私はハラハラとしながらもう一度その場から塔の底を見下ろした。 「フィグラリース、どういうことだ!」 階段まで追いやられた王子はその一段目に片足を掛け厳しく怒鳴る。 それから一拍開けて、フィグラリースさんの感情を押し殺したような冷たい声音が響いてきた。 「申し訳ありません。貴方方にはここで死んでいただきます」 そのあまりに簡単で恐ろしい言葉にショックを受ける。 彼と直接話をしたのはデュックス王子と花を摘みに庭へ出たあの時だけ。 ――殿下をお願いします。 耳に蘇ったその声と今の声とはまるで違う。 (こんなことをする人には思えないのに) でも彼は――。 「ははーん、そーいうことか」 その緊張感のないあっけらかんとした声は言わずもがなアルさんのもの。 「ってことは、クラヴィスが見当たらないのもアンタのせいってことだ」 「!?」 フィグラリースさんは答えない。それははっきりと肯定を意味していた。 (どういうこと?) 「お前が……クラヴィスをどうしたんだ!」 王子の声に焦りが滲む。 「ご心配なく。クラヴィスもすぐに貴方の元へ参ります」 「どういうことだ」 「彼には、貴方を殺めた謀反の罪で、死んでもらいますので」 「お前……!」 王子の声が怒りに震える。 と、そこでフィグラリースさんは少し笑ったようだった。 「誰も疑わないでしょう。むしろ皆憐れみすら覚えるかもしれない。彼は昔から、貴方に手を焼いていましたから」 「……っ」 王子が強く拳を握りしめているのがここからでもわかる。 「――ひょっとして、クラヴィスが弟派だって噂流したのもアンタだったり?」 「!」 アルさんの推測に驚く。 だとしたら、かなり以前から今この時のことを計画していたことになる。 フィグラリースさんは答えない。 「……プラーヌスに命令されたのか?」 かろうじて聞こえてきた王子の低い声。 そうだ。彼はプラーヌスのお気に入りなのだと、王子は話していた。 (やっぱり全部あの宰相が?) と、そこで初めてフィグラリースさんが感情を露わにした。 聞こえてきたそれは、とても苦しげで。 しかし、そこまでだった。 フィグラリースさんは剣を構え直し、再び冷たく言う。 「これもデュックス殿下のため。悪く思わないでください」 そして彼は、王子の前に立つアルさんに向け己の剣を振りかざした。 ガキィーーン! そんなけたたましい金属音が塔内に響き渡る。 「なっ!?」 フィグラリースさんの顔が驚愕に引きつる。 アルさんが彼の剣を腕で受け止めたのだ。 (腕に、何か着けてるんだ!) 彼を医者だと思いこんでいるフィグラリースさんは驚くはずだ。 そのままアルさんは腕で剣を薙ぎ払うと相手の懐に入り込みその腹に拳を打ち込んだ。 一瞬のうちに決着がついてしまった。 フィグラリースさんは剣を取り落とし、力なくアルさんの肩にもたれかかった。 「はやっ」 思わず小さく声が漏れていた。 後ろの兵士たちも一瞬怯んだようだったが声を上げながら一斉にアルさんに斬りかかった。だがアルさんはフィグラリースさんの身体を横たえ落ちていた彼の剣でその刃を受け止めた。またしても高い音が塔の中に響く。そしてアルさんは気合とともに彼らを蹴散らした。 「おいおい、仲間まで一緒に殺す気か?」 剣先を兵士に向けアルさんは言う。 「長剣は扱い慣れてないもんでさ、間違って斬っちゃったらごめんな」 その後も見事だった。剣は盾のように使い攻撃は専ら拳と脚で、あっと言う間にその場にいた兵士たちを全身昏倒させてしまった。 これまでそうだったように、てっきり術で応戦すると思っていた私は彼がラグのように術を使わなくとも強いことを知った。 ――彼を育て上げたと言われるアルディート・デイヴィス教師。 そんな誰かの台詞が蘇り、隣で抱えられている小さなラグを見る。 彼はさもつまらなそうな顏で先輩であるアルさんを見下ろしていた。 「あちゃー、買ってきてもらった服が台無しだな」 そんな声に視線を戻せばアルさんが破れてしまった長衣の袖口を見ていてなんだか気が抜ける。 続けて「あ」 と声を上げたアルさんは王子を振り返った。 「気絶させたらまずかったですかね」 王子は一瞬で決まった勝負を目の前にしてまだ呆気に取られていたようだったが、我に返り階段から下りた。 「い、いや、構わない。起きたらじっくりと訊けばいい。それより早く」 「ですね。クラヴィスを早く見つけましょう。――っと、ちょいと失礼しますよ〜」 アルさんはフィグラリースさんの前にしゃがみ込んで何やらごそごそとし始めた。 (? 何してるんだろ) 「あったあった!」 ひょいと立ち上がったアルさんは手にしたリング状のものを王子に掲げて見せた。 「鍵? ――そうか!」 王子の声。 (鍵?) ここからではよく見えないがどうやら鍵の束のよう。 「多分、これのどれかが役立つかなと」 王子が満足げに頷くのを見て漸く理解する。 「そっか、クラヴィスさんどこかに閉じ込められているかもしれないんだ」 「その可能性は十分にあるな」 セリーンも頷く。 と、アルさんがこちらを振り仰いだ。 「おーい、こいつら任せていいか?」 「あぁ。早く行ってこい」 答えたのはセリーン。 アルさんはそんな彼女に嬉しそうに手を振ると、 「頼んだぜー!」 そう叫んで王子とブゥと共に今度こそ書庫塔を出ていった。 倒れているフィグラリースさんを見れば何かでしっかりと後ろ手に縛られていて、私は感嘆の溜息と同時に肩の力を抜いた。 「下りるぞ」 「!」 その低い声と同時に上がったセリーンの舌打ちにぱっと後ろを振り向くと、元の姿に戻ったラグがいた。 目が合った途端、また全身に緊張が走る。 「も、戻ったんだね」 どうにか視線は外さずにそれだけ言うと、彼はああと短く頷き先に螺旋階段を下りていった。 その後ろ姿を見送りながら胸を押さえる。 (なんで、こんな……) 「どうした、行かないのか?」 傍らに立ったセリーンを慌てて見上げる。 「う、うん! 行こう」 「……また何か、あの男に言われたか?」 階段を一段下りたところで訝しげに訊かれどきりとする。 セリーンが考えているような、嫌なことは言われていない。 ただお礼を言われて、笑顔を見せてくれて、それで――。 「い、言われてないよ!」 小声で答えながら手を振る。 ――まさか抱きしめられたなんて言えるわけがない! (それにあれは、単に泣いてる私を慰めてくれただけで……) 「っていうかね、さっき仲直り出来たんだ。だからもう大丈夫。心配かけちゃってごめんね」 「いや、構わないが……。そうか、良かったな」 「うん」 笑顔で頷き、再び階段を下り始める。と、 「仲直り、か」 背後でセリーンが小さく笑った。 (――そう。そうだよ。仲直り。仲直り……だよね?) 心の中で首を傾げる。 でも、先ほどの小さいラグとの会話は、あれは仲直りと言っていいはずだ。 だからもう、嫌な気持ちになったり、ギクシャクしたりする必要はないのだ。 今まで通り、普通に接すればいい。……なのに。 (なんでこんなに落ち着かないんだろう) もう見えない彼の背中を追って螺旋階段を駆け下りながら、私はまた知らずのうちに胸を押さえていた。 階段を下り切ると、フィグラリースさん達は上から見た時と同じ格好で静かに横たわっていた。手首を縛っているのはどうやら彼自身の腰ベルトのようで、ラグが他の兵士たちも同様に腰から引き抜いたベルトで強く縛っている。 「良い剣だな。借りておくか」 見るとセリーンが細身の長剣を手にしていた。先ほどアルさんが使っていたフィグラリースさんの剣だ。 「そっか、セリーンの剣、まだ小屋に置きっぱなしなんだよね」 「あぁ。早く取りに行ってやらんとな」 「そうだね」 剣を一振りしもう一度その刃を真剣に見つめた彼女を見て微笑む。 今のような細身の剣も似合うけれど、やはりセリーンはあの大剣でないとどうもしっくりこない。 彼女自身がきっと一番そう思っているだろう。 そして私はもう一度横たわる彼を見つめる。 「フィグラリースさん、デュックス王子のためって言ってたけど」 ――貴方が、帰ってさえ来なければ。 先ほどの苦しそうな声音を思い出す。 「デュックス王子が喜ぶわけないのにね」 それは側近である彼が一番良くわかっているはずなのに。 「あの宰相が、まだ諦めていないということだろう」 セリーンが溜息交じりに言い、私も頷く。 「やっぱりあの人だよね」 あの人がいる限り、この城でツェリウス王子に安息の時はないのだ。 「どうしたら諦めてくれるんだろう……」 諦めさせることが、出来るのだろう。 「それを考えるのはオレたちじゃねぇだろ」 呆れたような声音に顔を上げる。 ラグは全ての兵士たちを縛り終えたようでふぅと息を吐きながら立ち上がった。 「あいつがこの先王になるつもりなら、尚更だ。オレたちはあくまで護衛としてここにいる。考えて決めるのはあいつ自身だろ」 「そう、だけど……」 「ま、あの宰相を殺っちまうのが一番手っ取り早いとは思うけどな」 「!?」 物騒な言葉にぎくりとする。 「護衛の延長でアルやオレに言えば済む話だ」 ……確かに、相手はあの術士だけでなく、こんなに身近な人物までも差し向けるような人間だ。 「でも、」 「でもあいつはその気はないみたいだ。だから何か考えがあるんだろうよ」 小さく驚く。 彼は彼なりに王子のことをちゃんと考えているみたいだ。 「護衛といや……お前、侍女ってのは何の話だ?」 「へ?」 視線が合って思わず間抜けな声が出てしまった。 「さっき、あいつが言ってたろ。侍女よりも王弟妃がなんたらって」 「あぁ!」 すぐに思い出す。 色々あり過ぎてすっかり頭の隅に追いやってしまっていたけれど。 「どういう話だ?」 セリーンも眉を顰め、私は慌てて答える。 「王子にね、言われたの。もし……私が帰れなかったら、ドナの侍女になってくれないかって」 言われた時は、ラグのこともあって不安な気持ちに押し潰されそうになったけれど、今はそれほどでもない。 こうして二人に普通に話すことも出来る。 「その方がドナが安心するだろうからって」 「それよりも王弟妃というのは何だ。弟の妃になれとでも言われたのか?」 「そ、それは王子のただの冗談!」 ぶんぶんと手を振り答える。 そうだ、あのときセリーンはいなかったのだ。 彼女はふぅと小さく息を吐く。 「ならいいが……あの王子。カノンにまでそんな頼み事をしていたのか。それでカノンはどう答えたんだ?」 そう訊かれ、私は首を振りながら視線を落とす。……なんとなく、二人の顔が見られなかった。 「答えられなかったの。だって私は、帰るつもりだし」 ――そう。私は元の世界に帰るつもりで。 そのためにここにいるのだから。 私は顔を上げて苦笑する。 「王子もあくまで帰れなかったときの話だからって」 「そうか」 セリーンがそんな私の頭に優しく手を乗せた。 「そうだな。それがカノンの目的だものな」 「うん」 頷く。 私の目的は帰るために、エルネストさんに会いにいくこと。 セリーンと、そして、ラグと一緒に。 ふと視線を移すと、彼はもうこちらには興味無さそうにまだ目を覚まさないフィグラリースさんを冷たく見下ろしていた。
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