「お前を身籠ってすぐだよ。私がこの街を出たのは」

 お腹に手をやり、彼女は続ける。

「何も告げずに出ちまったからね。あの人はそれは驚いたろうと思うよ。私が妊娠していたことも、知らなかっただろうからね」

(そんな……)

 なら王様は、急に愛する人を失ったことになる。

「なんで」

 掠れた声で訊ねる王子。

 彼女はふっと笑い、言った。

「急にね、恐ろしくなったんだよ」

(恐ろしく?)

「あの人は、私を王妃に迎えたいと言ってくれていた」

 王子の指先が、ぴくりと震える。

「私もね、純粋に嬉しかったさ。王宮での煌びやかな生活には憧れていたしね。女なら、誰だってそう思うものだろう?」

「! は、はい」

 急にこちらに視線が飛んできて、私は慌てて頷く。

 ――確かに、女の子なら誰だって一度は夢見るだろう。お姫様になりたい。綺麗なお城で暮らしてみたいと。

 彼女はそんな私に微笑み、その長い睫毛を伏せた。

「でもね、いざお前を身籠ったら急に怖くなっちまったんだ。……そんな生活、私には到底無理だと思った」

 そう話すお母さんの顔が、王子のことで悩んでいたあの夜のドナと重なった。

「だから、私は逃げ出したんだよ。あの人から」

「でも! だって、あいつはそんなこと一言も……」

 最後は言葉にならず、王子はそのまま俯いてしまった。

 ……今まで信じてきたものが一気に崩れたのだ。無理もない。

 でもきっと、王様からその真実を告げられても、王子は信じなかったんじゃないだろうか。

 こうしてお母さんの口から言われなければ、きっと、信じることが出来なかったんじゃないだろうか……。

 そんな息子の金の髪を優しく撫で、お母さんは言う。

「ごめんよ。私の覚悟が足りなかったばっかりに、お前には本当に辛い思いをさせたね」

 王子は何も言えないようだった。

(王子……)

 ここからその伏せられた顔は見えなくて、大丈夫だろうかと不安になる。

「わかったろう、私には城に行く資格がないんだよ。……王妃様にも酷いことをしてしまったしね」

 ゆっくりと王子が顔を上げる。

「産まれた子が金髪でないとわかったとき、王妃様は一体どんな気持ちだったろうと思ってね。……そう考えたら逃げたことをたまらなく後悔したよ」

 ――そうだ。これまで王子や王様、王子のお母さんのことばかり考えていたけれど。

 暗い部屋で王様を看ていた、あのやつれた女性の姿が頭を過ぎる。

 王の証しである金髪の子が生まれなかったとき、彼女は……王妃様ははどう思っただろう。

 ツェリウス王子の存在を知ったとき、どれだけショックだっただろう。

 知らず、強く胸元を握っていた。

「だからね。この笛を吹いてあの人の病を治すことが出来るのはもう私じゃない。今あの人の傍にいる、王妃様なんだよ」



 シンと静まり返った小屋に、はぁと溜息が大きく響いた。

「無駄足だったってことか。……戻るぞ」

 振り向けばラグがさっさと隠し階段を降りようとしていて慌てて声を掛ける。

「ちょ、ちょっと」

 いくらなんでももうお別れだなんて寂し過ぎる。

 しかしぎろりと睨まれてしまい、うっと言葉に詰まる。

 ……お城では王様やアルさんが苦しんでいる。それはわかっている。けれど今別れたらきっと、もう二度とこの親子が会うことはないのだ。

 だから、せめてもう少しだけ――そう言おうとしたときだ。

「……わからないじゃないか」

 絞り出したような声。

 王子は胸元の笛を強く握り締めていた。

「まだわからないじゃないか! あいつは……王は、母さんのことをまだ愛しているかもしれないじゃないか! だって王は、この笛を母さんに渡したんだ!」

 それはきっと彼の願い。そうあって欲しいと願う、彼の必死な叫びだったろう。

 しかしお母さんはその悲しげな笑みを崩さなかった。

「あの頃は、なんだよ。ツェリ」

 宥めるように、彼女は言う。

「私はね、人生一度きりの最高の恋だったと思っているよ」

「なら、王だって!」

 お母さんは首を振る。

「言ったろう。今あの人のそばにいるのは……この十数年、あの人をそばで支えていたのは王妃様だ。今更、私の出る幕は無いんだよ」

「でも……」

 更に続けようとした王子の頬に手を触れ、お母さんはそれまでとは少し違う声の調子で訊ねた。

「ひょっとして、お前にももうその笛を渡すと決めた相手がいるのかい?」

「!」

 王子が口ごもる。その頬が赤らんで見えたのは気のせいじゃないだろう。

 するとお母さんはそれまでの悲しそうな笑みではなく、嬉しそうに、とても幸せそうに微笑んだ。

「そうか、そうか!」

 繰り返し頷くと強く強く我が子を抱きしめた。

「母さん?」

「大丈夫だ。私は、こうして成長したお前に会えた、それだけでもう十分だよ」

 ゆっくりと抱きしめていた身体を離し、息子の瞳を覗き込むようにして見つめるお母さん。

「これだけは覚えておいで。お前はあの頃、私とあの人が真剣に愛し合って出来た子だ。逃げたことはもう数えきれないほどに後悔したが、お前を産んだことは一度だって後悔したことはない」

 そうして、お母さんはとても綺麗に笑う。

「ツェリウス。お前は私にとって掛け替えのない、自慢の息子だからね」

「……っ!」

 王子は堪らなくなったのか、もう一度自分からお母さんに抱きついた。

 その肩が小刻みに震えているのを見て、こちらも涙腺が緩む。

 そして、ふと考えてしまった。

(お母さん、どうしてるかな……)

 目の前の親子と自分とをつい重ねてしまった。

 ――あ、マズイ。

 そう思って一度ぎゅっと強く目を瞑る。

 今はそんな場合じゃない。

 自分にそう言い聞かせてぱっと目を開けると、丁度お母さんがこちらを見ていた。

「あんたたちも、ありがとうね。これからも息子のことをよろしく頼むよ」

「は、はい」

 慌てて返事をするとお母さんは満足げに微笑んだ。

 でもそこで気づく。

「あ、でも、帰りどうしましょう。街まで一人じゃ帰れないですよね」

 ここに来るときはセリーンが一緒だったけれど。ここは鬱蒼とした森の中。しかも夜中だ。

 連れてくることばかりで、帰りのことを考えていなかった。――しかし。

「なぁに、平気だよ。ここへは昔、よく一人で来ていたからね。もう慣れっこさ」

 そうして昼間の様にぱちんっとウィンクしてくれた。

(それって……)

「さ、ツェリ。もうお戻り」

 言われ、ゆっくりとお母さんから離れる王子。

「……母さん」

 彼は真剣な眼差しを母に向けた。

「僕は必ず、この国の王になる。母さんが誇れるような立派な王になってみせるよ」

 するとお母さんはふふと笑った。

「お前なら大丈夫だ」

「え?」

「街でね、お前の評判は聞いたよ。政に、平民の目線で意見しているんだってね。皆お前に期待していたよ」

 そう話すお母さんはとても誇らしげで、王子もそこで漸く、はにかむような笑顔を見せた。

「その分、敵も多いんだろうけどね……。私は、どこにいてもお前のことを一番に思っているよ。――体に、気をつけてな」

「うん。母さんも」

「あぁ」

 そこで王子はくるりと彼女に背を向けた。

「城に戻ろう」

 そう言った彼の目は可哀想なほどに真っ赤で、私は頷きすぐに視線を外す。

 ラグの姿は既に無く、追いかけるようにして階段を駆け下りる。

 そのすぐ後に王子も階段を下りてくるのがわかった。

 木の扉が閉まる、寸前。

「幸せにね」

 聞こえたその声に、王子の息遣いが大きく響く。そして。

「はい!」

 王子が返事をした直後、扉はバタンと閉まった。


 ――元来た通路を戻る間、王子の方は一度も振り返れなかった。



 そして再び地下通路のスタート地点に戻ってきた私たち。

 このまま螺旋階段を上がれば書庫塔に出られる。しかし。

「おかしい」

 王子がそう呟いたのは本棚を動かすための装置に笛を差し入れたときだった。

 その訝しげな声音に不安を感じて私は訊く。

「どうしたんですか?」

「……動かない」

 そう言ってもう一度笛を回そうと腕に力を入れる王子。

「動かないって、」

「出られないってことか」

 ラグの冷静な声を聞いて焦る。

「なんで!?」

 すると王子は天井を見上げ言った。

「書庫塔の扉が開いていると、動かないようにはなっているんだが」

 確かに扉が開いているときに本棚が動いてしまっては大変だけれど。

「で、でも、クラヴィスさんが扉の外で見張ってくれてるはずですよね?」

「そのはずなんだが……」

 自分で言いながら嫌な予感がした。まさか。

「閉じ込められたんじゃないか?」

 その溜息交じりの声に王子はラグを見る。

「閉じ込められた?」

「……あいつが、クラヴィスが実は弟派だって噂があんだろ?」

 王子の目が大きく見開かれる。

「クラヴィス、が?」

 やはり、王子は知らなかったのだ。

 私は流石にショックを受けた様子の彼を気にしつつ訊く。

「でもなんのために」

「さぁな。帰ってきてほしくない理由があるんだろう」

 ラグは言いながら壁に背を預けた。

「でも、ここ塞いだって小屋が」

「ちょっと待て」

 そのとき王子が声を上げた。

「え?」

「動く」

 言うなり王子は笛をがちゃりと回した。

 天井から本棚が動くあの振動音が聞こえてきてほ〜っと肩を落とす。

 ラグも小さく息を吐き壁から身を引いた。

「ガタが来てんじゃねーのか」

「いや、そんなことはないと思うんだが……」

 不安げに眉を寄せ天井を見つめる王子。

 そして振動音が止む。

 私たちは顔を見合わせ、ラグを先頭に階段を上り始めた。

 間もなくしてぽっかりと空いた出口が見えた。

 ラグが慎重にそこから顔を出す。

「誰もいない」

 小さく言ってそのまま外へ出るラグ。

 その後に王子、私と続いて隠し階段から書庫塔へと出た。

 ふぅと息を吐いて辺りを見回すが、特に異常はないようだ。

「もしかしてクラヴィスさん、私たちが気になってちょっと中を覗いたんじゃないですか?」

 明るく言う。しかし、

「……なら、いいんだがな」

王子はそう低く言って本棚の奥に笛を差し込んだ。

 元の位置へと移動していく本棚を見ながら思う。

(噂のことを言っちゃって、マズかったかな……)

 本棚の動きが止まり、最下段にあった分厚い本を2冊元の段に戻した王子はすぐさま扉へと向かった。

「クラヴィス!」

 扉を開け放つと同時、従者の名を呼ぶ王子。しかし。

(クラヴィスさん……?)

 そこにいるはずの彼の姿はなかった。

 王子も、回廊を見渡しながら眉を顰めている。

 渋々でもいつも王子の言いつけを守っていたクラヴィスさん。

 一体、どこに行ってしまったのだろう。これでは疑惑が深まってしまう。

 と、王子が何も言わず駆け足で回廊を進み始めた。

 それを慌てて追いかけながら言う。

「あの、王子。さっきのは本当に単なる噂で」

「なら何でいない」

「や、それは、わからないですが……」

「――違う」

「え?」

「あいつが、僕の命令を破るほどの事態が起きたかもしれないってことだ」

 どきりと胸が嫌な音を立てる。

「それって」

「とにかく急ぐぞ」

 クラヴィスさんが王子の言いつけを破るほどの事態。

 そんなの限られてくる。

(まさか、間に合わなかった……?)

 思わず後ろを振り返れば、目の合ったラグもその顔に焦りの色を濃くにじませていた。



 まず向かったのは王様の部屋よりも近い、王子の部屋。

 階段を上がり長い廊下に出るが、そこにもクラヴィスさんの姿は無い。

 王子が無言で部屋を開けると、すぐにセリーンの赤い髪が目に入った。

「カノン」

「ぶぅ!」

 セリーンがソファから立ち上がり、一緒にブゥも飛び上り嬉しそうに鳴いた。そして。

「皆、戻ってきたのか」

 聞こえたその声とゆっくりと上半身を起き上がらせたアルさんの姿を見て、どっと安堵感が押し寄せる。

(良かったぁ……)

 思わずへなへなとその場に座り込んでしまった。

「カノンちゃん?」

「どうしたんだ、一体」

「クラヴィスは来なかったか」

 セリーンの言葉を遮るように、王子が訊く。

 眉を寄せる彼女。

「一緒じゃないのか?」

 それを聞くと王子はすぐに踵を返し廊下に出た。

 王様の部屋に向かったのだろう彼の後をラグがついて行く。

 慌てて立ち上がりながら、私はセリーン達に小声で言う。

「クラヴィスさんがいなくて、何かあったのかと思って。次、王様のとこ行ってくるね」

「母君は」

 セリーンの短い問いに、私は首を振り笑顔で答える。

「王妃様にね、お願いすることになったの」

「……そうか」

 セリーンとアルさんが同じように微笑み頷くのを見て、私もその部屋を出た。



 王様の寝室の前には騎士が二人立っていた。しかしやはりクラヴィスさんの姿はない。

 彼らはすぐにこちらに気付き、驚いた様子で背筋を伸ばした。

「殿下、こんな時間にどうされましたか」

「王の様子が気になってな。あれから変わりないか」

「はい!」

「よく眠っておられるご様子です」

 緊張した面持ちで返事をする二人。

 それを聞いてほっと胸を撫で下ろす。でも。

(なら、クラヴィスさんは……?)

 王子は更に訊く。

「王妃もまだ中か?」

「はい!」

「そうか。……クラヴィスは見かけなかったか」

「副団長、ですか? いえ、見てはいませんが」

「殿下とご一緒だったのでは?」

「いや、どうやら行き違いになってしまったらしい。気にしないでくれ」

 王子はそう何でもない風に言うと金の扉をノックした。

「ツェリウスです。入ります」

 返事はなかったが王子はその重そうな扉を開けていく。

(クラヴィスさんのこと、気にならないわけないだろうけど……)

 その背中を見ながら思う。

 それでも、王様の呪いを解くことが先と考えたのだろう。

 ならこちらもと、私は身を引き締めた。




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