次に目が覚めたとき辺りはもうすっかり暗くなっていた。

 ――どのくらい寝ていたのだろうか。

 起き上がりたかったけれど顔に当たる空気がぴんと冷えていて、毛布から出るのにはかなりの勇気が必要だった。

 昼間はそうでもなかったけれど流石に日が沈むとここも相当に寒いみたいだ。

 ノーヴァの宿はペチカのお蔭で暖かかったが、この村にはペチカは無いのだろうか。

 目を凝らして室内を見回して、そこでセリーンがベッドにいないことに気付く。

(隣の部屋ってことはなさそうだし……下かな?)

 暗闇のせいで真夜中のように感じるがひょっとしたらまだ夕飯時なのかもしれない。

 セリーンはもう起き上がって平気なのだろうか?

 私は思いきって毛布を外してベッドから降り、鳥肌が立つのを感じながら急いで壁に掛かっていた防寒具を身に纏った。

 寒さは仕方ないとして、熱があるとき特有のだるさがすっかり消えていた。頭も試しに振ってみるが全く痛くない。

「よし、治ったっぽい!」

 思わず声に出してガッツポーズをとっていた。そして同時にホッと胸を撫で下ろす。

 ――これで皆に迷惑を掛けることも心配を掛けることもない。

 そうとわかると、いよいよセリーンのことが心配になった。

 私は念のため音を立てないよう静かに廊下に出る。すると思った通り階下はまだ明るく人の気配がした。ほのかな良い香りに思い出したように胃が空腹を訴える。

(私の分まだあるかな?)

「おい」

「!?」

 階段に向け廊下を一歩踏み出すと同時、背後から声を掛けられびっくりする。

「ラグ!」

 いつの間に廊下に出たのだろう、全く気付かなかった。

 彼は防寒具を身につけていなかった。このくらいの寒さはどうと言うことないのだろうか。

 相変わらずの不機嫌顔で彼が口を開く。

「何処行く気だ?」

「えっと、起きたらセリーンがいなくて、下かなって思って」

「あいつらならあのデカ蛇を見に行った」

「え!?」

 驚く私にラグは面倒そうに息を吐いた。

「この寒さでまた冬眠されたんじゃ困るからな」

「でも、セリーン平気だった? さっき、その、結構辛そうで」

「あいつが言い出したんだ。腕の調子を見るついでに行くってな」

「腕?」

「治ったっつっても、一度腱をやられてるからな」

「あ……」

 傭兵を生業にしているセリーン。剣の腕が鈍っていないか気になるのは当然だ。本当はすぐにでも剣を振り回したかったに違いない。

 でも私を捜すためにほとんどビアンカの上でそんなチャンスは無かったはずだ。

「で、アルの奴が勝手について行った」

「そっか……。アルさんがいれば安心だね」

 セリーンはきっと間違いなく一人の方が良かったのだろうけれど。

 でもそこまで動けるほどには回復したということだろうか。

「で、お前は?」

「あ、私はもう平気! 完全に治ったみたい!」

 私は笑顔で言う。

 でもラグは疑っているのかまだ眉を寄せたままだ。

「色々迷惑掛けちゃってごめんね。ホントにもう平気だから!」

「……本当だな」

「うん!」

 信じてくれただろうか?

 でも何となく彼が安堵したのがわかって私は笑顔のまま続ける。

「ありがとう。心配してくれて」

「心配っつーか、だからオレはお前に死なれると困るって」

「うん、わかってる。でも言わせて?」

 そんな私を彼は少し驚いた顔で見下ろした。

 ――ちょっと気恥ずかしいけれど、ずっと言いたかったことだから。

「いつも助けてくれてありがとう! 私、ラグがいてくれて本当に良かった。面倒だと思うけど、これからもよろしくお願いします!」

 昼間セリーンにしたときと同じように頭を下げて言う。

 本当はノーヴァで言うはずだった言葉。危うく言えなくなるところだったけれど、だから、こうして言うことが出来て、とてもすっきりとした気分だった。だが、

「あー……くそっ!」

そんなイラついた声に顔を上げると、ラグは顔を伏せ考え込むようにして額を押さえていた。

「ラグ?」

「オレの考えが甘かったんだ!」

「え? な、何が?」

 急に口調を荒くした彼にわけがわからず焦る。何かまた怒るようなことを言ってしまっただろうか。

 と、彼はゆっくりと額から手を外し、そのまま自分たちの部屋のドアに手を掛けた。

「ちょっとこっち来い」

 そう言ってドアを開け中に入っていく彼に、私は首を傾げながらもついて行く。――廊下では出来ない話なのだろうか?

 中に入りドアを閉めると彼はスタスタと奥へ歩いていきベッドにどかっと腰を下ろした。

 室内は蝋燭の灯りでほのかに明るかった。

 ベッドの前まで行って改めて訊く。

「甘かったって、何が?」

「……あのグラーヴェ兵だ」

「あぁ、フィエール?」

 彼はこちらを見ないまま続ける。

「あの野郎がノーヴァで休むことくらい、ちょっと考えればわかることだったんだ」

「そう、なの? でも、セリーンも私もどうにかこうして助かったんだし。……まぁ、セリーンはまだ心配だけど」

「そうじゃねぇ!!」

 その怒声にびくりと身を竦める。

 そして気付いてしまった。昼間と違い、ここにはセリーンもアルさんもいない。ブゥも部屋にいないところを見ると二人について行ったか夜のお散歩中だろう。

 この状況で二人きりだということに今更緊張を覚える。

 ――ひょっとして、まだフィエールの前で歌ったことを怒っているのだろうか。

(だとしたら、今朝のお説教の続きとか……?)

 あの時はアルさんが止めに入ってくれたけれど、今は誰もいない。それにあの時と違い今彼は本来の姿で、怒鳴り声には十分な迫力がある。

 逃げ出したい気分になっていると、そこですっと視線を向けられ思わず身構える。

「今回のことでランフォルセの奴らがお前を手に入れたがってるってことがわかった」

「う、うん」

「だから、これからは出来る限りお前から離れないようにする。お前もまた同じ目に遭いたくなけりゃ、余計なことに首つっこんだりしねぇで、オレから離れるな。わかったな」

(……あれ?)

 てっきり怒られるとばかり思っていた私はなんだか拍子抜けし、その後で言葉の意味を理解して、彼らしくないものすごく気障なセリフだなぁと他人事のように思った。

 こちらに向けられた深いブルーの瞳が蝋燭の灯りに揺らめいて、とても綺麗で――。

「カノン! おい、聞いてんのか!?」

「は、はい! 聞いてます!」

 慌てて答えながらもなぜだか顔がとても熱くて、そんな自分に戸惑いを覚えた。――丁度、そんなときだった。

「お邪魔かな?」

 突然割り入ってきたその楽しげな声に、私とラグの視線が同時に外れた。

「エルネストさん!」

「金髪野郎!」

 ラグはすぐさまベッドから立ち上がり私の横に並ぶ。

 その視線はドアの手前。そこに彼の、エルネストさんの姿があった。

 ――光と闇とが大きくゆらぐ部屋の中、彼にだけはそのどちらも映らない。

「無事でよかった、カノン」

 いつものように微笑みかけてくれるエルネストさん。

 でも今日はその笑顔が少し翳って見えた。その理由はすぐにわかった。

「ごめんね。怖かっただろう」

 気遣わしげに言われて、喉の奥が詰まった。

 ――まただ。

 彼の笑顔を見るとすぐ胸がいっぱいになってしまって、優しい言葉をかけられるとこうしてすぐに涙がこぼれそうになる。

 言いたいことも訊きたいこともたくさんあるのに。

 彼とは少しの間しか話せないというのに――。

 私は涙を呑みこむように唇を噛みしめて首を強く振った。

「ありがとうございました! エルネストさんがラグ達を呼んでくれたおかげで、私もセリーンも助かりました」

 まっすぐに彼を見つめて続ける。

「それに、一人のときもエルネストさんが見守ってくれてるって思ったら、その……とても心強かったです!」

 顔が真っ赤になっているのが自分でわかる。

 でも彼がいつもの綺麗な笑顔を見せてくれて、言って良かったと思った。

「今回は彼……アルディートと言ったかな? 彼がいなかったら本当に危なかった」

 すっとエルネストさんの視線が離れる。

「ラグ。君だけだったら、カノンをあのまま奪われていただろう」

「うるせぇ! この呪いが――っ」

 何かを言いかけ、ラグは大きく舌打ちをした。

 強く握られた行き場の無い拳が小刻みに震えている。

 エルネストさんはそんなラグを見てふぅとため息をついた。

「まぁ君も今回のことでわかったようだけど、二度とカノンから離れないようにね。でないと、なんのために君を選んだのかわからなくなってしまうよ」

(選んだ……?)

 その言葉を反芻しながら私はラグを見上げた。と同時、彼が全ての怒りを吐き出すように大声を張り上げた。

「そもそも、てめぇがどこにいるのかさっさと教えやがらねぇから、こんな面倒くせぇことになってるんだろうが!!」

 確実に階下にまで届いているだろう怒声に私は首を竦める。

 だが言われている当人は相変わらず涼しい顔だ。

「だから言ったろう? 僕はカノンにこの世界をもっと見て欲しいんだって。大丈夫だよ、ちゃんとヒントはあげるから。でももっと僕に近づいてからだよ。結局振り出しに戻ってしまったようなものだからね」

「こっの……!」

 エルネストさんはこの大陸を出たどこかにいるらしいと、ラグが以前言っていたことを思い出す。

 振り出しとはストレッタやランフォルセのあるこの大陸に戻ってきてしまった、という意味だろうか。

「カノンもあまり無茶をしないようにね。でないと、いつかラグに首輪付けられちゃうかもしれないよ」

「え」

「付けるか!!」

 クスクスと楽しげに笑うエルネストさんを見ながら、私は焦りを覚えもう一度口を開いた。

「あ、あの!」

 ――早くしないと、彼はきっともうすぐ消えてしまう。

「私がこの世界にいる間、元の世界ではやっぱり私が急にいなくなったことになっているんでしょうか?」

 先日見た夢。

 皆泣いていた。両親も、友達も皆。

 単に自分の不安な気持ちが見せた夢だったらいい。あの時は熱も高かったから。

 ……でも、本当の声に思えてならなかったのだ。

 エルネストさんは再び憂いの表情を浮かばせ答えてくれた。

「ごめんね。カノンの元いた世界のことは僕にもわからないんだ」

「そう、ですか……」

 もう一度「ごめんね」と繰り返した彼に、私は首を振り精一杯の笑顔で言った。

「エルネストさんのところへ早く行けるように頑張ります。待っていてくださいね!」

「うん。待っているよ」

 そうして、また綺麗に微笑んでくれた。

「ラグ、カノンを頼んだよ。それと赤毛の彼女も僕のことを知っているかもしれないんだろう? 大切にね」

「さっさと消えやがれ!」

 そしてその罵声に応えるように、笑顔のまま彼は消えていってしまった。

 ――静寂が訪れる。

 彼が消えた後は決まって機嫌最悪のラグ。それは彼の立場を考えたら仕方のないことだけれど……。

 恐る恐る横を振り向くと、丁度彼はベッドに腰を下ろしたところだった。そのまま自分の足に肘をつき怒りを抑えるように俯いてしまった。

 私は再び彼を見下ろす格好になって、次の言葉を必死で探す。――でも。

 ぐぅ〜っと、私のお腹から気が抜けるような……いや、実際その場の空気が全て抜ける音が鳴り響いた。

 慌ててお腹を押さえるがもう遅い。ラグが眉間に皺をいっぱいにしてこちらを睨み上げてきた。

「ご、ごめん」

 思わず謝る。彼にお腹の音を聞かれるのはこれが初めてではなかったが、何度だって恥ずかしいものは恥ずかしいし、その上このタイミング。顔が熱くてしょうがなかった。

 ラグは長い長い溜息を付いてから、やっと口を開いてくれた。

「下に行くか。お前の分も……」

 言いながら立ち上がるラグ。でも言葉の途中で何かに気付いたように視線をドアの方へ向けた。

 そして私も勢いよく駆け上がってくる二つの足音に気付く。

「セリーン達かな?」

 私が言い終わると同時、ドバンと音を立ててドアが開いた。そこに立っていたのは予想通りセリーンとアルさんで。

 笑顔でおかえりなさいと言おうとして、でも二人の表情を見てそれを呑みこんだ。

「貴っ様……! 私はカノンを気にしていろと言っただけだ! 誰が部屋へ連れ込めと言った!?」

「しかもお前またでかい声で怒鳴ったって!? 俺があんっだけ優しくしろって言ってんのにもー、お兄ちゃんは情けないぞ!!」

 二人の剣幕に隣に立っているラグが小刻みに震えているのがわかって私は焦って口を開く。

「ち、違っ」

「あぁー! ったくどいつもこいつもぉぉーー!!」

 ラグが頭を抱えそう怒鳴るのを聞いて、きっと、いや間違いなくその中に私のことも含まれているのだろうと、もう一度お腹を押さえたのだった。



「へぇ、またあの兄ちゃんがねぇ。一体何者なんだろうな」

「わかったら苦労してねぇよ」

 腕を組み難しい顔をするアルさんにラグが不機嫌極まりないというふうに答えた。

 ラグの怒声はやはり階下まで聞こえていたようで、セリーン達が戻るとすぐに女将さんが上で私たちが喧嘩しているようだと教えてくれたらしい。

 セリーンは誤解だとわかってもまだドアの前でラグの方を睨み見ている。

「あんなふうにいきなり現れたり消えたりする術なんて聞いたことねぇもんな」

「あ、そうなんですか?」

 魔法のような力が存在するこの世界。てっきりエルネストさんのあの不思議な姿も術の一種なのかとずっと思っていたが。

「ま。俺も術の全てを知りつくしているわけじゃねぇけどな」

 術士であるアルさんが笑いながら言う。

 ――ふと、ラグとアルさんとではどちらが強いのだろうという疑問が浮かんだ。ラグはアルさんのことを先輩みたいなものだと言っていた。とするとやはりアルさんの方が強いのだろうか。

「カノンはもう平気なのか?」

「あ、うん! もうすっかり!」

 ふいに訊かれ笑顔で答えるとセリーンは少しだけ表情を和らげた。

「セリーンは? あ、腕の調子を見に行ったって聞いて」

 自分の腕に触れながら言う。

 ……本当は身体の調子のことも訊きたかったのだけれど。

「あぁ、大丈夫だ。問題ない」

 こちらを安心させるように目を細めた彼女に私は心底ほっとした。

「そうそう、ビアンカも平気そうだったぜ。どうせお前明日にはここを発つつもりなんだろ?」

「あぁ。病人がいないのならこんな所に留まってる理由はないからな」

 ラグのそのつっけんどんな言い方に少々引っかかりは感じたけれど、ビアンカもちゃんと起きていると聞いて安心する。

「次はどこに行くの? やっぱ、そろそろビアンカはフェルクに返してあげなきゃいけないよね」

 言うと、ラグは少しの間を置いて、セリーンに視線を向けた。

「クレドヴァロールには行ったことあるか?」

「……あぁ。随分前にだが」

「クレド……? 遠いの?」

「あのデカ蛇なら7日あれば余裕で着けるはずだ」

「7日……」

 ビアンカがいなかったら一体どのくらいかかる距離なのだろう。なんだか怖くて訊けなかった。

 しかしビアンカを帰してしまったらその後の旅は徒歩や船になる。そのクレド……なんとかという国にエルネストさんがいてくれることを願うばかりだ。

「あ。そこって寒い? 暑い?」

 我ながら間抜けな質問だとは思ったが、私にとってはかなり重要なことだ。また急な気温の変化で体調を崩したくはない。

「フェルクよりは暑くないな」

「ってことは暑いんだ……」

 セリーンの答えに少し顔が引きつってしまった。

「クレドヴァロールに着いたらあのデカ蛇は帰せばいいだろ」

「そうだね」

 ビアンカの有難味がわかってしまうととても辛いし寂しいけれど、ライゼちゃん達のことを考えるとやはり早く帰してあげたい。

「カノン、食欲はあるか?」

「あ、うん! そうだ、さっき下に行こうと思ってたの! お腹ペコペコで」

「女将にはお前の分も頼んであるからな。……だが、あまり期待しないほうがいい」

「え?」

 咄嗟に料理のことを言っているのかと思った。でも違った。

「こいつが余計なことをしやがったせいで、この村の奴ら全員に術士だってことがばれちまったからな」

「え、やっぱ俺のせい?」

 あっけらかんと自分を指差すアルさん。

 そして昼間の偽ラグ騒ぎのことを思い出した。

「あ、あれってやっぱアルさんだったんだ。……え、でも一応助けたことになるんだし、皆喜んでくれたんじゃないの?」

「だろー? 俺も良かれと思ってやったことなのによ〜」

 アルさんが子供のように口を尖らせ言う。

「アホか! こうなることは目に見えてただろうが!!」

「まーたそうやってすぐ怒るー。だからそんなに目付き悪くなるんだぞー。昔はあんなに素直で可愛かったのになー」

「だっから昔の話はすんなって言ってんだろーが!!」

 そしてまた二人の漫才もどきが始まってしまった。

 ――納得がいかないけれど、その後セリーンと食堂に下りてすぐに思い知る。

 女将さんの私たちを見る目は昼間とは全く違っていた。

 それは昼間あの偽ラグの方に向けられていたものと、同じだった。

 昼間と同じ美味しそうなミルクシチューが無言のままテーブルに出された。

 お礼を言いながら顔を上げるが、その視線はやはり冷たい。

「もう体調はいいのかい?」

 それでもそう訊かれ、私はほっとして答える。

「はい! お蔭様でもうすっかり」

「そうかい。なら、朝には出ていっておくれね」

 そして女将さんは踵を返し厨房へと入ってしまった。

 ――声が、出なかった。

「カノン、ほら早く食べろ」

「う、うん」

 セリーンに促され私は少し震える手でスプーンを取った。

 そのままシチューを口に入れるが、あんなにお腹が減っていたのに味がわからなかった。

 セリーンとも何も話せず、ただ機械的にスプーンを口へと運んでいく。

 皿が空になり、厨房の方に向けて「ごちそうさまです」と声をかけたが、答えはやはり返ってこなかった。


 階段を上がると、アルさんがドアからひょっこり顔を出していた。

「二人ともおやすみ。また明日な」

 その笑顔に答えるように、私も笑顔で「おやすみなさい」と挨拶した。

 部屋に入りドアを閉めるとセリーンは丁度ベッドに腰を下ろしたところだった。

「カノンが気に病むことではない」

「え? ……うん。でもやっぱり納得いかないっていうか」

 この、先ほどから胸にモヤモヤとわだかまっている感情はなんだろう。怒りにも似ているけれど、違う。

「だって、アルさんがあの人達を吹き飛ばさなかったら、この村の人達はずっと怯えたままだったのに」

 ――そうだ。つい最近、私は同じ感情に出逢っている。

 フェルクレールトでクラール君を助けるために歌ったあの時。しかし銀のセイレーンと知った村の人達は必死に私から逃げていった。あの時は、とにかく悲しくて……。

(そっか。悲しいんだ)

 アルさんだってあんなふうに笑っているけれど、本当は悲しいに決まっている。きっと、ラグだって……。

 私がまだドアの前で拳を握っているとセリーンが小さく息を吐いた。

「術士は今や畏怖の対象だ。あの野盗のように少しでも術が扱えれば奴だと信じてしまうほどにはな」

 セリーンがドアの向こうに視線をやりながら静かに続ける。

「本物だということがばれていないだけまだマシだろう」

「もしばれたら?」

 私が訊くとセリーンは少し間を置いて小さく言った。

「そうなったら奴の方から此処を出ると言っただろうな」

「うん。……そうだね」

 ラグならきっとそうするだろう。

 と、そこでセリーンがふっと笑みを見せた。

「あの子と初めて会ったときのことを覚えているか?」

 あの子……というのはラグが小さくなった姿のことだろう。私はあの草原でのことを思い出す。いつもはつい笑ってしまうのだけれど。

「あの子は私に術士だということがばれた時に、嫌なら今すぐ帰ってもらって構わないと言ったんだ。とても言いにくそうにな。あの子はもしかしたら今までずっとこんな目に遭って来たのかもしれないな。全く、いじらしいったらないなあの子は!」

“あの子”という所を強調した言い方に苦笑しながらも、私もこれまでの彼を思い出していた。

 ラグは最初から人前で術を使いたがらなかった。それは呪いのせいだけではなく、セリーンの言う通りこれまで辛い目に遭って来た彼なりの処世術なのかもしれない。

 この世界に来たばかりの私でさえ、突然使えるようになったこの力のせいでこんなにも嫌な思いをしているのだ。

 ずっと以前から術士として、――魔導術士として生きてきた彼は、一体これまでに何度こんな場面に遭遇しているのだろう。

 特に彼の名は特別な意味を持っている。

(ちゃんと話せばそこまで怖くないってわかるのにな。……確かに怖いときは怖いけど)

 しかしこの村の人達はきっとこれからも、いや、こんなことがあったからこそこれまで以上に術士を畏怖の対象として見るのだろう。

 彼らは、私たちがこの村を去ってやっと心から安堵し喜べるのだろうか。そう思ったらすごくやるせない気持ちになった。

「さ、早く寝てしまおう。明日は早いぞ」

「うん」

 その言葉に私は漸くその場から動きベッドへ向かった。

 でも横になってもなかなか寝つけない。

(昼寝しちゃったようなもんだもんね。……ラグ達は、もう寝られたかな)

 きっと明日は日が昇ったらすぐに出発だ。

 私は無理やりに目を瞑り眠りに入った。



 翌朝。私たちは早々に準備を済ませ、気まずい思いで食堂に降りた。

 そこにはパンとミルクだけが置かれていて女将さんはいなかった。

 しかし厨房には確かに人の気配があって、宿を出る際アルさんは「昨日のシチューすっげ美味かったぜ。ありがとうな!」と声を掛けていた。

 答えは無かったけれど、アルさんは終始笑顔だった。――強い人だなと思った。

 そして、誰とも会うことなく私たちはタチェット村を出た。


 その後ビアンカに乗り上空から村を見下ろすと、多くの人が外に出ていた。

 まるで何事も無かったかのような、平和で、ごくありふれた村の姿。

 子供たちが楽しげに走り回っているのを見て、アルさんは嬉しそうに良かった良かったと繰り返していた。

 と、そんなアルさんにラグが言う。

「おい、もう一度言うぞ。戻るなら今だからな」

「は? 何処に?」

「何処に、じゃねーよ! ストレッタに決まってるだろうが!!」

 首を傾げたアルさんに向かって怒鳴るラグ。すでにポケットの中でお休み中のブゥが起きてしまわないか心配になるほどの大声だ。

 しかしアルさんは相変わらず全く気にしていない様子で、寧ろ呆れたふうに言う。

「なんだお前まだそんなこと言ってんのかよ。いい加減しつこいぞー。言っただろう。俺も一緒に行くって」

 そうきっぱりと言ってから得意げに続けた。

「お前は早くその呪いを解きたいんだろ? だったら俺が居た方が断然早く」

「おいタレメガネ」

 途中で私の後ろから声が掛かった。

「タレメ……? え、俺のこと?」

 自分を指差しながら私越しにセリーンを見るアルさん。その顔は笑っていたが微かに口元が引きつっていた。

「他に誰がいる。奴と同意見なのは癪だが、貴様は色々な意味で邪魔だ。よって今すぐにストレッタへ帰れ」

「うっわーー! なんかすっごい酷いこと言われたーー!!」

 アルさんが盛大にショックを受けた振りをするのを見て私は苦笑する。すると彼はそんな私を縋るような目で見てきた。

「カノンちゃーん、カノンちゃんはそんな酷いこと言わないよなぁ? 俺がいた方が絶対楽しいよな〜?」

「え、えっと」

「カノン、余計なこと言うんじゃねーぞ!」

「そうだぞカノン。そんなヘタレメガネに一切の同情は不要だ」

 珍しく息の合っている二人に私はただただ苦笑を続けることしかできなかった。

「あれー!? なんかさっきよりも名前酷くなってないかセリーン! 俺はヘタレじゃないぞ! タレ目なのは認めるけどヘタレじゃなーーい!」

 アルさんの嘆きが早朝の冷たい空気を震わせた。

 ――昇ったばかりの朝日が、私たちを明るく照らしていた。




第三部 了

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