「……消えちゃった」 また一人になってしまった私は今の今まで彼が浮いていた空間を見ながら呟く。 ――とりあえず、もう一度頭を整理することにしよう。 彼と話してわかったのは、やはり此処はつい先程まで私がいた世界とは、異なる世界だということ。 そして、元の世界に戻るには帰るための“楽譜”が要るということ。 その楽譜は金髪の彼、エルネストさんが持っていて、でも幽閉されているという彼を助けなければその楽譜はもらえない。 「って、これだけ?」 結局、まだまだわからないことだらけだ。 この世界は一体どういう世界なのか。 “銀のセイレーン”とは何なのか。 そして、何で私の髪の毛が銀に変色したのか。 (消えるの早過ぎだよ……) どうせなら全部わからないことを訊いておけば良かったと、今更ながらに後悔する。 しかし彼も無謀過ぎる。 これだけこの世界について何もわかっていない私に「助けろ」だなんて……。 しかも助けてくれと言った本人が一体どこにいるのか、教えてはくれなかった。 でも、彼は消える直前「これからよろしく」と言っていた。 それはこれからも今のように現れてくれるということなのだろうか。 (それなら、その時にまた色々訊けばいいけど) とにかく何もわからないこの世界で自分のことを解ってくれる人がいたのだ。 今の私には、それだけでとても心強かった。 助けが来ると言った彼。今はその言葉を信じるしかない。 (どんな人が助けてくれるんだろう) こんな陰湿な場所で一人ただ待っているのも気が滅入る。私はその人物を勝手に想像してみることにした。 (男の人? それとも、意表を突いて女の人? ……怖い人だったら嫌だな。エルネストさんみたいに優しそうな人だといいなぁ) 「銀のセイレーン、聞こえるか?」 「!?」 唐突に頭上から降ってきたその無遠慮な声に、私は思わず悲鳴を上げそうになってしまった。 例の天井近くの小窓からのようだ。私は立ち上がり天井を見上げる。 ここは地下。おそらくあの窓は地上に通じている。ということは外にいる誰かの声だ。 しかしその窓は小さすぎてここからは何も確認出来なかった。 そろそろ外も暗くなる時間だろう。そういえばここに入ってきた時よりも肌に触れる空気が冷たくなった気がする。 壁に取り付けられた蝋燭がゆらゆらと揺らめいて、目を凝らしてもやはり何も見えなかった。 「おい。誰もいないのか?」 再び小窓から聞こえた、先ほどより少しイラついた声。 「はい、います!」 答えてから声が大き過ぎたかと慌てて口を塞ぐ。 「今相棒をそっちにやる。扉が開いたときを狙ってそこから逃げろ」 (相棒?) あの小さな窓からどうやって入ってくるというのだろう。 喋り方からして男の人らしいが、その声はまるで変声期前の子供のようだった。 反響しているせいだろうか……。 訝しんでいると、何か小さなものがゆっくりと落ちてきた。 いや、“落ちて”きているのではない。 ふわふわと目の前まで“降りて”来たそれに、私は目を丸くした。 白い毛玉のような小さな体と、体の割に大きな黒い翼。そして小さなつぶらな瞳と、特徴的な豚鼻。 「……コウモリ?」 呟くと、思わず広げた手のひらにそいつはちょこんと降り立った。 そして私を見上げて「ぶ」と鼻を鳴らした。 「えっと、」 見た目とても可愛らしいこの蝙蝠もどきに、一体何ができるのだろうか。 ものすごく不安になった私の頭上から再び声が降ってくる。 「ブゥ、頼んだぞ」 その声に答えるようにもう一度「ぶ」と鼻を鳴らす蝙蝠もどき。 声の主は去ってしまったのかそれきり何も言わなかった。 「お前、ブゥって言うの?」 「ぶ」 ……一応、こちらの言葉は理解しているようだ。 この「ブゥ」に何が出来るのかさっぱり予想がつかないけれど、とりあえずこの密閉された部屋で話せる相手が出来たことは嬉しかった。 「よろしくね、ブゥ」 そう笑いかけたときだ。 ガチャンと扉の鍵が開く音がして私はびくりと身を固くする。 開いた扉の向こうには先ほど私をここまで連れてきた兵士の一人が立っていた。 「尋問室へ移……」 だがその兵士の目がブゥを発見して大きく見開かれる。 「モンスター!?」 「え?」 この子には全然似つかわしくない物騒な単語に私の方が驚く。 視線を下ろすがもう手の中にブゥはいなかった。 「ぎゃぁ!」 直後聞こえた兵士の叫び声に視線を戻すと、腰の剣に手を掛けた兵士の顔面にブゥが張り付いていた。 そのまま後ろに倒れていく兵士。どさっという音と同時ブゥが顔から離れ飛び立った。 恐る恐る近づいて見下ろすと、兵士の顔にはまるではんこを押されたように豚鼻の形の跡がくっきりと残っていた。 瞬間死んでしまったのかと思いドキドキしたが目を回しているだけで息はしているようだ。 「お前、すごいのね」 呆気にとられたように言うとブゥは私の肩に留まり得意げに「ぶ」と鼻を鳴らしたのだった。
その後もブゥは驚くほどに活躍してくれた。 地下牢を抜け出した私たちは当然見張りの兵士たちにすぐに気付かれた。 だがその兵士たちは今、身体のどこかに豚鼻の跡を付けて昏倒している。 先ほど兵士はブゥのことを「モンスター」と言った。 可愛い姿からは想像できない脅威。それを「化け物」と呼ぶのなら確かに納得せざるを得ない。次々に倒されていく兵士を見て少なからず恐怖を感じてしまったのも事実だ。 その「モンスター」を“相棒”と言った先ほどの声の主。 (どういう人だろ……) 出口を求め階段を上りながら、思わず怖い想像になってしまい私は頭を振る。 あの優しそうなエルネストさんの知り合いだ。そんなに怖い人ではないだろう……と願いたい。 思いのほか早く出口らしき扉を見つけ、この建物が複雑な構造でなくて良かったとホッとする。 扉を開けて外の空気を感じた、次の瞬間。 「!!」 私はその扉に手を掛けたまま、地べたにへたり込んでしまった。 目の前に十数人の兵士たち。――私たちは完全に包囲されていた。 一斉にギラリと光る剣先を向けられ体がガクガクと震える。 流石のブゥも私の頭上をふわふわと浮いたまま動こうとはしなかった。 「逃げてどうするつもりだ」 兵士の中の一人が前に出て厳しい声音で訊く。そのすぐ後ろでは松明を持った兵士が私の顔を照らしていた。 「そのモンスターをどうやって城内に侵入させた」 二度目の質問にも私は答えられなかった。 あまりの恐怖に声が出ない。 ただ震えるだけの私を見てその兵士は呆れたようなため息を吐いた。 「仲間がいるかもしれん。探せ」 背後にいた兵士数人がすぐに動く。 そのときだ。 「風を此処に!!」 どこからかそんな鋭い声が上がり、途端凄まじい突風が私達を襲った。 悲鳴を上げる暇もなかった。目を開けることさえ出来ない。 でも今の今まで死の恐怖を間近に感じていたからか、さほど驚きは無かった。 そんな中兵士たちの酷く動揺したような声が耳に入ってくる。 「魔導術!?」 「なぜ魔導術士が……!」 ――まどうじゅつ? 聞きなれない単語に眉を寄せたその時、ぐんと腕を引っ張られた。 「走るぞ」 無理やりに立たされる格好になった私は聞き覚えのある声にハっとする。 牢屋で聞いたあの声だ。 しかしまだ強風の中、しかも松明の火が消えてしまったのか辺りは真っ暗で姿までは確認できなかった。 返事をする間も無くそのまま腕を引っ張られ、私は恐怖ですくむ足を叱咤しどうにか走り出す。 「狼狽えるな! 娘が逃げた!」 先ほど一番偉そうだった兵士の十分に狼狽えた声が背後で聞こえた。 とりあえずあの場は切り抜けられたみたいだ。だがまだ気は抜けない。 感覚でだけだが、おそらく今私たちは城の裏手に向かっている。 何だかわからない違和感を覚えながらも私は必死で走る。 いつまでこの風は吹き続けるのだろうと思ったそのとき、ふっとそれは止んだ。 ゆっくりと目を開けていきまず映ったのはブゥの後ろ姿。そして、 (え?) 今自分をひっぱっている手を辿り私は目を見開く。 違和感の正体。自分を誘導しているのは子供――少年だったのだ。 後ろで一つにまとめている黒髪が尻尾のように揺れている。その頭上を相棒だと言うブゥが飛んでいた。 驚きとともに私の中に妙な安堵感が広がる。 子供だからといって頼りないとは思わなかった。現にこうして助けてくれたのだから。 「あ、ありがとう!」 走りながら助けてもらったお礼を言う。だが、 「礼言ってる暇があんなら歌えよ! 銀のセイレーン!!」 変声期前の高い声で厳しく言い返されてしまった。 また聞いた“銀のセイレーン”という言葉に半ばうんざりする。 「私そんなんじゃないよ! 勝手に周りが言ってるだけで」 と、急に彼は立ち止まり小さく舌打ちをした。 つんのめりそうになりながら彼の頭越しに前を見ると、こちらに走ってくる新たな追っ手が見えた。 後ろからも「いたぞ!」という声。 横は高い城壁。 私たちは完全に逃げ場を失ってしまった。 「ど、どうするの!?」 私は頼りの少年に訊く。 すると彼は睨むような目つきで私を見上げた。 彼の瞳は青かった。額に布を巻き、その顔つきはやはり10歳程に見えた。 「お前、銀のセイレーンじゃないのか!?」 「違うってば!」 「クソっ、話が違うじゃねぇか!」 吐き捨てるように言った少年は腰から不相応な大きさのナイフを取り出し、私の前に進み出た。 ブゥもそんな彼の頭上で迫る敵に構えているように見える。 だがどう考えても兵士たちの長剣相手では分が悪すぎる。 「無理だよ! さっきの風、もう一度出来ないの!?」 確か兵士たちは「まどうじゅつ」とか言っていた。おそらく“魔法”と同じようなものだろう。あの力があればきっと――。 「出来ねぇから焦ってんだろ!」 「うそぉ!?」 私はまたしてもヘナヘナと力が抜けるのを感じた。 今度こそ終わり!? 「何でもいい、とにかく歌ってみろ!」 「こんなときに歌なんて……」 いつも気が付けば何かしらのメロディーを口ずさんでしまっている程歌うことは好きだけれど、今は状況が状況だ。 歌なんて歌えるわけが――。 「早くしろ!」 すでに敵は目前。 私たちは追い込まれるようにいつの間にか城壁を背にしていた。 ――この城壁を越える事が出来れば。 今、空を飛ぶ事が出来れば……。 その時ふと視界に入ったのは、ブゥの小さな翼。 そう。あんなふうに自分にも翼があれば。 兵士たちに再び囲まれるのと、私の口から小さな歌声が漏れたのは同時だった。
私は今 空へと舞い上がる
幼い頃から歌を歌うこと、そして、歌を作ることが好きだった私。 天使のような純白の翼が生えた自分をイメージして、“飛びたい” そう願いを込めた即興歌を、私は歌った。 兵士たちが驚いたように口を開け私を見る。 少年も、ブゥまでがこちらを振り向き目を見開いている。 一度出した歌声は止まらず、私は更に歌い続ける。 こんな状況下で自分でも不思議だったけれど、とても気持ちが良かった。 背中に熱を感じた。まるで、本当に翼が生えたみたいだ。 飛びたい。――目を瞑り祈るように、ただ強く願う。
私は今 空を駆けていく
そのとき奇妙な感覚にとらわれた。身体が消えていくような、そんな違和感。 不安を覚え目を開けて、私はその違和感の正体を知る。 ――私、浮いてる!? そう、私の身体は地面を離れ宙に浮いていた。 瞬間歌を止めそうになってしまい慌てて続ける。でないと落ちてしまいそうな気がした。 だがその時視界の端に入ったものに危うく声が裏返りそうになってしまった。 髪の毛が、また銀色に輝いていたのだ。 「銀の……セイレーン!」 誰かが叫んだ。 兵士たちは少しずつ上昇していく私から逃げるように後ずさりしていく。 そんな中、少年が地面を蹴り私の腰辺りに抱きついてきた。重さは感じない。 「このまま逃げるぞ!」 ブゥは少年の頭に乗り、つぶらな瞳で私を見上げた。 自分と同じように空を飛んだ私に彼も驚いているようだ。 剣を下ろした兵士達が皆口をぽかりと開けて夜空に昇っていく私たちを見上げている。 決して気を抜かないように私はそのまま歌い続けた。 そして私たちは城壁を越え、どうにか危機を脱する事ができたのだった。 |