風が弱まり薄目を開けた丁度そのとき、トンっという軽い音が聞こえた。

 それが地面に降り立った音だとわかりホッとしたのも束の間、それまで支えてくれていた手が離れ私はお尻から落下した。

「いったた……」

 お尻を摩りながら涙目で周囲を確認する。

 そこは、白い建物に囲まれた狭い路地だった。

 人通りは無く、建物の影で昼間だというのにひどく薄暗い。

 どうやら街からは出ていないみたいだ。

 そして、目の前に立つ人物を私は恐る恐る見上げる。

 予想通り、眉間に深い皺を刻んだ“少年”がこちらを威圧するように見下ろしていた。

 確実にご立腹な様子の彼に、それでもお礼を言おうと口を開きかけたときだ。

「何を考えてんだ! あんな場所で歌いやがって、どれだけの人に顔を見られたと思ってやがる!!」

 ラグの甲高い怒鳴り声が建物の壁に反響する。

 肩をすくめながら彼が今小さな姿で良かったと思った。

 大きい方の彼に怒鳴られていたら、きっと何も言えなくなってしまっていただろうから。

「だって、酷いんだもん……。ラグだってそう思ったでしょ? あんな小さな子を」

「弱ぇくせにこの国に来たあいつらがいけねーんだ! そんなのにいちいち構っていられるか!」

「何か事情があったんだよ! ……それにあの子、銀のセイレーンとして処刑されるって聞いて……」

 それが単なる口実だとしても、知らんふりは出来なかった。

「自分が処刑された方がいいってのか? 随分とご立派だな」

 鼻で笑うように言われてムっとする。

「そんなんじゃないよ! 私だって、すっごく怖かった」

「なら出しゃばったマネするんじゃねぇ! お前に死なれるとこっちが困るんだよ!」

 再び強く怒鳴られて、私は視線を落とし唇を噛んだ。

 本当は、助けてくれてありがとうと言いたかったのに、

「……そう、だよね。ラグは呪いを解きたいんだもんね」

小さく口から出てきたのはそんな皮肉めいた言葉。

「あぁ、その通りだ。わかってんなら二度と余計なことに首突っ込むな!」

 ――彼は私を何度も助けてくれている。

 でもそれは彼が“銀のセイレーン”としての私を必要としているから。

 きっと私が銀のセイレーンでなかったら、先ほどの騒ぎなど気にも留めずに通り過ぎていたのだろう。

 そう思ったら、急に悲しくなってきた。

 セリーンも私が止めに入るまでは街の人たちと同じようにただあの子達を見ているだけだった。

 私を見て驚いていた彼女の顔が頭に浮かぶ。

 こうなってしまった以上、きっと彼女にももうお礼を言うことは出来ない……。

 俯く私を反省していると取ったのか、ラグは深く溜息を吐いてそれ以上声を荒げることはしなかった。

「さぁて、これからどうするか。すぐにここまで追ってくるぞ。港も最悪封鎖されてるだろうな」

 ラグのその言葉に私は顔を上げる。

「船に、乗れないってこと?」

「出国にはそれなりの手続きが必要になる。おそらくそこは張られてるだろ。……とりあえず、暗くなるまで身を隠せるところを探すか」

 舌打ちしながら苦々しく言うラグ。

 ――そうだ。今は感傷に浸っている場合じゃない。

 今捕まってしまったら全部おしまいだ。

 ラグが術を使えない今、私の歌がまた必要になるかもしれない。

 私は暗い考えを無理やりに振り払い、気を引き締めて立ち上がろうとした。が、

「あ、あれ?」

酷い眩暈に襲われ再びストンと座り込んでしまった。

(こんな時に、貧血!?)

 頭からサーッと血が下りてくるような感覚。

 確かにここ数日ろくなものを食べていない。今日も朝、硬いパンのような食べ物を少し齧ったきりだ。

 でも今はそんなこと言っていられない。気力でなんとかするしかない。

 私は頭を振ってもう一度立ち上がろうと足を踏ん張るが、結局力が抜けたようにお尻を着いてしまった。

「なんで……?」

 私は呆然と自分の力の入らない足を見つめる。

 と、それを見ていたラグが頭を押さえてまた深い溜息を吐いた。

「ったく、体力も十分じゃねぇのに歌うからだ。言ったろ、セイレーンは自分の力を歌にするって」

「そんな! だって前に空を飛んだときは……」

「あん時はお前気絶してただろ」

「あ。……で、でも元の世界じゃこんなこと無かったし……っ」

 私は言いながらもう一度立ち上がろうと試みるが、やはりダメだった。

(早く、逃げなくちゃいけないのに!)

 気持ちばかり焦って泣きそうになってくる。

「しばらく動けないだろ。昔のオレと一緒だ」

「え?」

「術士は普通万物の力を借りるが、最初は皆うまくいかなくて自分の力ばかり消耗するんだ」

 言いながらラグはおもむろに石畳の地面に耳を付けた。

「ちっ、もう近くまで来てやがるな」

「うそっ!」

 ラグの顔にも焦りが見え始め、私は青ざめる。

「ったく、しょうがねぇな。……背中に乗れ」

 ラグがこちらにその小さな背を向けた。

「でもその体じゃ」

「いいから早くしろ! 見つかったらその場で殺されるぞ!」

 その必死な表情と恐ろしい言葉にギクリとして、私は急いでラグの肩に腕をかけた。

 しかし完全に負ぶることなど出来るはずもなく、足は地面に着いたままだ。

「うっ……おも……」

「だ、だからムリだって!」

「うるっせぇっ……お前もなるべく足に力、入れてろ!」

 言いながらラグはゆっくりと足を進めた。

「くっそ、なんでオレがこんなこと……」

 ぶつくさ文句を言いながらも一歩一歩私を引きずって行く。

 真っ赤になった彼の顔を見て、急に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「……役立たずで、ごめんね」

「わかってるなら、せめて、大人しくしてて、くれよな……っ」

「うん。……ありがとう」

 自分のしたことが間違っていたとは思わないけれど、それによってラグにこうして迷惑をかけているのは事実だ。

 私は漸くお礼の言葉を口にして、力の出ない足を精一杯動かした。



 ガチャガチャという金属音が両側から近づいてくる。

 体を縮こませて息を潜める。

 金属音――兵士たちの足音が目の前で止まった。

「いたか!?」

「いや、こっちにはいなかった。この辺りに降りたってのは確かなんだろうな」

 まだ若い男たちの声。

「銀のセイレーンか……。あのバッソさんをあんな腑抜けにしちまうんだ。生け捕りなんて無理があるよな」

 不安げに言う兵士たち。

 バッソというのはおそらくさっきの偉そうな兵士のことだろう。

 剣を落とし頭を垂れたあの兵士を思い浮かべながら、私は小さなラグの後ろで強く口を塞いでいた。でないとこの静かな場所では呼吸さえも響いてしまう気がした。

 私たちは今建物と建物の隙間、積み上げられた木箱の影に身を隠している。

 その木箱のすぐ向こう側で兵士たちの愚痴とも取れる話はまだ続くようだった。

「しかしよりによってこの区画か。相変わらず薄気味悪い場所だ」

「この間もこの辺りで出たって報告があったんだぜ」

「闇の民の亡霊か……。この雰囲気じゃあ、そういう噂が立っても可笑しくないよな」

(亡霊!?)

 思わず背後を気にしてしまう。

 兵士達の言うとおりこの辺りは昼間だと言うのに薄暗く、特に今私たちの隠れている場所など建物の影で殆ど真っ暗だ。

「そういやさっきバッソさんが銀のセイレーンと間違えたってのは闇の民のガキだったんだろう?」

「そう聞いたな。子供だけでどうやってこの国に入ったんだか……」

「ひょっとしてそのガキ、亡霊だったりしてな」

「や、やめろよ。……それじゃ、次は向こうを捜すか」

 遠ざかっていく金属音を聞きながら、ラグと私の溜息がほぼ同時に漏れた。

「亡霊って、まさか本当に出ないよね?」

「……お前は、亡霊と兵士とどっちが怖いんだ」

「え? あ〜……どっちも」

「あっそ」

 ラグはゆっくり立ち上がると木箱の横から顔を出して相変わらず人気の無い通りを見渡した。

 私も立ち上がろうと試みるが、足がふらついてすぐに手をついてしまった。でもさっきのような酷い眩暈はない。

 確実に回復していっているのがわかって少しほっとする。

「このままここで日が暮れるのを待つか。一度確認したんだ。しばらくは来ないだろ」

 言ってラグは木箱を背に腰を下ろした。

「そうだね、その間にラグも元に戻るだろうし」

「戻れたとしても、結局この国に居る限り同じことの繰り返しだ。……こうなりゃ船を奪うしかねぇか」

「!?」

 穏やかじゃないその言葉に思わず声を上げそうになってしまい慌てて小声で続ける。

「そ、そんなことするの!?」

「他にこの国を出るいい方法があるなら言ってみろよ」

 言われて口を噤む。

 ……無論、この世界に飛行機などないだろう。

 海を渡るには船しかない。

 だが今の私達は港に入ることすら難しい。

 ラグが元に戻って術が使えるようになれば、兵士達をどうにか突破して船を奪うことも不可能じゃないだろう。

 でも船を奪うということは明らかに犯罪行為で、関係のない人たちまで巻き込むことになってしまう。

 もっと何か良い方法がないだろうか……。

 必死で頭をめぐらせていたその時、下方からグゥ〜という音が響いた。

 バっとお腹に手を当てるがもう遅い。完璧にラグに聞かれてしまった。

(最悪だ〜!!)

 こんな大変な時にお腹が鳴るなんて……。

 情けなくて恥ずかしくて私は真っ赤になって顔を膝に埋めた。

 ラグの小さな吐息が聞こえて、また呆れられてしまったと更にへこむ。――と、

「ほれ、これ食っとけ。……まだ長いぞ」

差し出されたのはコロンとした小さな丸い包みだった。

 お礼を言ってその包みを受け取り開けてみると、出てきたのはどう見てもチョコレートで。

 私は目を見開いてすぐさまそれを口に入れた。

 とても甘くて、耳の下がジーンと痺れる感覚。

 お菓子なんて食べたのは何日ぶりだろうか。

 両頬を押さえて思わず幸せを噛み締めていると、

「……お前、本当に伝説の銀のセイレーンなのか?」

またラグに呆れられてしまった。



「さっきの兵士。私のこと生け捕りにするって言ってたね。……見つかっても、すぐに殺されることはないってことかな?」

 私は眠ったように目を閉じているラグに小さく声を掛けた。――彼はすでに元の青年の姿に戻っている。

 寝ていない証拠に、その眉根にはいつもよりも深い皺が刻まれていた。おそらくこの後のことを考えているのだろう。邪魔してしまっただろうか。

 この辺りは本当に静かで、耳を澄ますと低い潮騒の音が聞こえてくる。

 夕暮れが近いのか、頭上にある狭い空がさっきより大分色濃くなった気がする。

 予想通り、あれから兵士達は現れていない。

 と、ラグの空と同じ青い瞳がゆっくりと開いた。

「どうだろうな……。銀のセイレーンは一応伝説上の人物だ。捕まえて調べたいのかもな」

「調べる!?」

 自分が手術台に縛り付けられ兵士達に囲まれている姿が脳裏に浮かび、慌てて打ち消した。

「それか、その力を利用したくなったか……」

「利用?」

「なんにしろ、他の国に渡って欲しくはないだろうな」

「……私って、そんなに凄いのかな」

「全くそうは見えねぇけどな」

 全く、を強調されて少しむっとする。

「そりゃそうだよ。向こうじゃ普通の女子高生だったんだから……」

 ブツブツ文句を言っていると、私を見るラグの視線が微妙に変わった気がした。それは人を哀れむ目に似ていて。

「な、何?」

「……そういや言ってなかったけどな。“銀のセイレーン”ってのは、伝説には絶世の美女とあるんだ」

「美女!?」

「その美貌と美しい歌声で世界を破滅へと導く、ってな」

 私が目をまん丸にしていると、ラグは視線を外し盛大に溜息を吐いた。

「ちょっ、ちょっと! 今のすっごく失礼!! そりゃお世辞にも美女なんて言えないけど」

 私が憤慨していると、ラグの目つきがまた変わった。

 今度は真剣な、危険を察知した目だ。

 私はすぐに口を閉じて身を硬くする。

 耳を澄まして聞こえてきたのは、足音だった。

 それが私の背後から響いてくるものとわかり、ばっと振り返る。

 だがそこにあるのは先ほどよりも濃くなった闇だけで、何も見えない。

(まさか亡霊……!?)

 兵士達の話を思い出してぞっとする。

 走るわけでなく、一歩一歩ゆっくりとこちらに近づいてくる足音。兵士達のものではない。

「ちっ、ここの住人か?」

 ラグは立ち上がり私を見下ろした。

「もう一人で平気だな」

「う、うん。……多分」

 私は言いながらすぐに立ち上がった。

 眩暈はない。足もふらつかない。

 本当に平気なようで私はほっと胸を撫で下ろした。

 ラグもそれを見て少しだけ安堵したような表情を見せた。

「よし、行くぞ」

 私は頷き、ラグに続いて路地に出た。

 相変わらず人気は無い。路地だけでなく、建物のどの窓も向こうは真っ暗で人の気配がまるで感じられなかった。

 あの賑やかな大通りに比べるとここだけがゴーストタウンのようだ。

「どうするの?」

「もうすぐ日が沈む。それまでまたどこかに――」

 と、その時だ。

「いたぞー! あの娘だ!!」

 その大声に驚き振り向くと、路地の向こうで数人の男達がこちらを指差していた。

 兵士ではない。しかし皆手には何かしら武器になるものを持っている。

「何で! 兵士じゃないよ!?」

「ちっ、自警団も加わりやがったのか! カノン走るぞ!!」

 私は震えそうになる足を叱咤して地面を蹴った。

(自警団? 敵は兵士だけじゃないってこと……!?)

 背後から追って来るバタバタという足音。あの金属音ほどではないがその数の多さは十分に恐怖だ。

 必死に走りながら思い出す。

 初めてこの世界に来た日も兵士達にこうして追い掛けられた。

 あの時のラグは子供の姿だったけれど、今のラグなら……!

「ラグ! 魔導術は!?」

「それは最終手段だ! 今術を使っちまうと兵士達に出くわしたときに使えなくなっちまう! なんとか撒くんだ!」

 ラグの酷くイラついた声が返ってくる。

 そうだ。最悪な敵はやはり兵士達。

 この迷路のように狭く入り組んだ路地ならどこかにまた隠れられる場所があるかもしれない。

 私は走りながらきょろきょろと視線を巡らせた。

 ――それがいけなかった。

 ラグの背中だけを追っていれば良かったのだ。

 気付いたときには、彼の姿は無かった。

「うそ!?」

 思わず足を止めて振り返る。やはりラグはどこにもいない。

 いつの間にはぐれてしまったのだろう。

 だが戻ってラグを探している時間はない。

 まだ姿は見えないが確実にこちらに近づいてくる複数の足音。

 私は荒い息をどうにか整えまた走り出した。

(どうしようどうしようどうしよう……!!)

 急に一人になってしまった私は、完全にパニック状態に陥っていた。

 この世界に来てからいつも助けてくれる誰かが近くにいた。

 それが、こんな最悪な状況でひとりぼっちになってしまった……!

(ラグ! セリーン! ――エルネストさん!!)

 私は心の中で泣き叫びながら白い建物の間を縦横無尽に走った。

 ただ闇雲に、背後から迫る足音から逃げることだけを考えて。

 だが、土地勘の無い私はすぐに行き詰ることになる。

 目の前の高い壁にドンと手をついた。

「行き止まり!?」

 戻ろうと壁を背にするが、そこで私は最悪な音を耳にする。

 ガチャガチャという金属音。――兵士たちだ。

(そうだ、歌!)

 私はお城を脱出したときのことを思い出す。

 あの時も目の前には高い壁があった。

 乗り越えるなら、あのとき歌ったあの歌しかない。

 息を吸い込んで、でもすぐにまたその息を吐き出す。

 ――歌い終わったあと、さっきみたいにまた動けなくなったら……?

 今は一人。動けなくなっても誰も助けてはくれない。

 でも足音はもう間近に迫っていた。

 私は頭を振って自分を落ち着かせる。

(飛べれば、上からラグを見つけることだってできる!)

 意を決して再度口を開いた――そのとき、ガンっという大きな音が響き心臓が飛び上がった。

「ぐあっ!」

「な、なん……ぎゃああぁ!!」

「うわぁあ!」

 すぐそこの角の向こうからそんな恐ろしい叫び声と、けたたましい金属音が続けざまに聞こえてきた。

(な、何!?)

 一際大きな金属音が響き渡った後、急に辺りはシンと静まり返った。

 ごくりと唾を飲み込む。

 足音が消えたことから、おそらく追っ手が何者かに倒されたのだ。

(もしかして、ラグ……!?)

 私は覚束ない足取りでその角を曲がった。

「!?」

 だが、その都合の良い予想は外れる。

 地べたに倒れ込む兵士たちの中心に一人立つ人物。

 それはラグには似ても似つかない、褐色の肌をした大男だった。

 彼の真っ黒な瞳が私を捕らえる。

(闇の民……亡霊!?)

 一気にそこまで連想されて、私はヘナヘナとその場に尻餅をついた。

 迫力に気圧されてしまったのだ。

 筋肉隆々、背は190は優にあるのではないか。

 その大きな手には太い棍棒のようなものが握られていた。

 あんなもので殴られたらひとたまりもないだろう。

 見ると、倒れた兵士の甲冑にぼっこりとへこみができていた。

 男が、のっそりと私に近づいてくる。

(もう、ダメ……!)

 思わず目を瞑ったそのとき、

「やったね、お父さん!」

(――へ?)

この場に不似合いな無邪気な声に私はぱっちりと目を開けた。

 大男の向こうに、数時間前に助けたあの闇の民の男の子がいた。

 そしてその後ろで、あの時の白髪の少女がにっこりと微笑んでいた。




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