「きゃあ!」 鋭い叫び声で私は目を開けた。――いつ目を閉じたのか、覚えていなかったけれど。 「え?」 自分の口からそんな小さな声が漏れる。 少し見上げた視界の中に大勢の人々が映っていた。 そしてこちらに向けられた目、目、目……。なぜだか私は人々の視線の中心にいた。 しかもその人たちの顔は一様に不安げで――。 「そんな、まさか!」 「銀の……!?」 「この国も、もう……!」 ざわめきの中から聞き取れた声もそんな酷く怯えたようなものばかり。 でも、それよりもまず気になったのは。 (ここ、どこ?) 一見してわかるのはここが道のど真ん中であること。 大通りと言っていいだろうその道の両側には木組みの建物が美しく立ち並び、それは見慣れた日本の風景とは程遠く、テレビや雑誌などで見るヨーロッパの街並みに良く似ていた。 (……どっかのテーマパーク?) でもそれは建物だけではなかった。 今も私を遠巻きに見つめる人々の格好。まずスーツや学生服を着ている人が一人も見当たらない。皆まるで童話の中から抜け出してきたかのような変わった服装をしていた。 顔立ちや肌の色も良く見ると日本人のそれとは明らかに違う。 地面もアスファルトではなく、ガタガタの石畳。その上に私は一人ぺたりと座り込んでいた。 (なんで私、こんなとこに座ってるんだっけ?) 記憶を辿ると、そこは高校の音楽室。 卒業を間近に控え、私は大好きだった音楽室で一人思い出に浸っていたのだ。そう、さっきまで……ついさっきまで、私は学校の中にいたはず。 それなのに――。 足についた砂を払いながらゆっくりと立ち上がると、途端私を囲む人々の輪が広がった。中には悲鳴を上げてその場から逃げていく人までいる。 (嫌な感じ) なぜこんな、皆揃って私に注目するのだろう。しかもそんな怯えた目で。 (なんか変かな。私……) 不安を感じながら恐る恐る自分の格好を見下ろす。 一般的な高校の制服姿。別段可笑しなところは無い。 と、そのとき足元に紙切れが一枚落ちていることに気が付いた。拾って裏返すと、それは。 (楽譜? ……そうだ) 私はつい先ほどいたはずの音楽室で、このタイトルも何もない古ぼけた楽譜を見つけたことを思い出した。 なんとなく興味を惹かれて、私はその知らないメロディーを小さく口ずさんだのだ。 そして、気付いたら此処に……。 (やっぱり変) この楽譜をどこかに持ち歩いた記憶はない。 見れば靴は学校指定の上履きのまま。 どう考えても、いきなり此処に、この場に来てしまったとしか――。 「なんの騒ぎだ!?」 その場の空気を切り裂くような突然の怒声に、皆の視線が一斉に私から移る。 人々を割って現れたのは、物々しい格好の男二人。二人とも西洋風の甲冑を身に着け、腰には剣と思しき物を携えていた。 “兵士” ――私の頭に浮かんだのはそんな単語。 威勢良く現れた男たちだったが、私を目にした途端、他の人々と同じように明らかに動揺した素振りを見せた。 しかしそれは一瞬だけ。二人は目配せし合うと、私の目の前まで近寄ってきた。 男たち、優に180cmはあるだろう。ちなみに私の身長は女子の平均並。 威圧感に思わず一歩引いてしまった。 「娘、どこから来た」 「え?」 「どこから来たと訊いている!」 その怒鳴り声に私は身をすくませる。 「に、日本から……?」 県名から言うべきか瞬間迷いつつも私は小さく答えた。 だが案の定、私の答えは気に入られなかったらしい。男は眉をぴくりと上げ、更に大きな声を出した。 「ニホン!? そんな名は聞いたこともない」 「じゃあ、ジャパンは?」 「知らんな」 「アメリカは!?」 「…………」 無言で顔をしかめる兵士たちに、足元がスーっと冷たくなっていくのを感じた。 (嘘でしょ……?) 此処が日本でないことはほぼ間違いないようだ。 こんな格好の人が日本で平然と歩いていられるとしたら、それこそ遊園地や映画村くらいなものだ。 一般人の私ごときにこんな手の込んだドッキリもないだろう。 ……頭を掠めるまさかの嫌な予感。 今時日本もアメリカも知らない国などあるだろうか。小さな村ならまだしも、一見十分に栄えていそうな大きな街だ。 ひょっとしたら此処は――。 「あ、あの……」 そのとき遠巻きに見ていた人々の中から声が上った。 兵士がおもむろにそちらを向く。声の主は初老の男性だった。 「その異国の服を着た娘、突然そこに現れたんだ」 そう言いながら不安げな表情で私の足元を指差す。 周りの人々も一斉にうんうんと頷いた。 「ま、まさかその娘、伝説の、銀のセイレーン……なのでは」 (銀のセイレーン?) 男性の声は徐々に尻すぼみになっていったが、確かにそう聞こえた。 「そうよ!」 また別のところから声が上がる。今度は女の人だ。 「だってその子、銀髪じゃない!」 「へ?」 思わず気の抜けた声が出てしまっていた。 私の髪の毛は昔から真っ黒だ。学校も親も厳しくて、染めたことなど一度もない。……はずなのだが。 恐る恐る頭の後ろに手を回し一つに結っていた髪の毛を確認する。 自分の目を疑った。 確かに銀髪――見事なシルバーブロンドだったのだ。 染めて出る色ではない。夕陽に照らされて一本一本がキラキラと銀に輝いていた。 「なに、これ」 手と声が震える。 いきなり知らない場所に来てしまったという、有り得ない現実。その上自分の身体にも異変が起きていたことに私は愕然とした。 だが確認してすぐのことだ。 周りが再びざわめいた。前にいる兵士たちも目を丸くする。 それもそのはず、銀の輝きがスーっと消えていき、元の何の変哲も無い黒髪に戻っていくではないか。 その一部始終を間近で見てしまった当の私はその場で固まるしかなかった。 さっきまでざわついていた街中も今はシンと静まり返っている。 「――こ、この娘は城で調べる!」 その静寂を破ったのは兵士の大声。 「それまで絶対に大事にするな! わかったな!!」 兵士はまだ呆然とする人々に向かい言い放った。 そして、私はわけがわからないままに兵士たちに拘束されることになった。
「取調べまでここでおとなしくしているんだ」 そう言われ私は暗く狭い部屋に放り込まれた。 重い金属音がして向こう側から鍵を掛けられたのがわかる。 ――鼻につく、酷いカビのにおい。 石壁で四方を囲まれたそこはどう見ても“牢屋”としか思えなかった。 出口は今入ってきた頑丈そうな鉄の扉と、天井近くにある小窓。 当然のようにその小窓は手を伸ばしても絶対に届かない位置にあって、そこから少しだけ淡いオレンジの光が漏れていた。 壁に取り付けられた小さな燭台以外、ベッドも椅子も何も置かれていない牢屋の中で私は少しの間呆然と立ち尽くす。 「トイレに行きたくなったら出してくれるんでしょうね……」 呟いた声が壁に冷たく反響して消えた。 ここはお城の中……厳密に言えばその離れにある、お城に比べたらとても簡素な造りの建物の地下だ。 お城はやはり西洋風のもので、その周囲はこの建物も含めぐるりと高く厚い塀で囲まれていた。 大きく立派な城門を抜け、間近でお城を見上げたときはその荘厳な佇まいに思わず口がだらしなく開いたままになってしまった。 「どうせなら観光で来たかったよ〜」 長い溜息をつきながらとりあえずその場に座ることにする。 とにかく、今の状況を整理しなくては。 私は薄暗い地下牢の中で一人、頭をフル回転させた。 数十分前、確かに私は日本の高校にいた。 そこで楽譜を見つけて……その楽譜は先ほどの兵士に没収されてしまったが、気づいたらこの西洋風な街にいた、と。 見慣れない服を着た人々。そして日本もアメリカも知らないと言った兵士達。 先ほどから頭を過ぎる、まさかの嫌な予感。 「もしかして此処って、“異世界”とかって、やつ……?」 自分で言いながら軽く眩暈がした。 主人公がいきなり別の世界へ迷い込んでしまうという小説や漫画で良くあるストーリー。 でもこれは紛れも無い、今自分の身に起こっている確かな現実だ。 (あ、でも過去の世界ってことも考えられるかも) どちらにしてもこんなこと俄かには信じられないが、というより信じたくは無かったが、今はとりあえずこれからどうするかを考える方が先決だ。 別の世界にしろ過去の世界にしろ、独り知らない世界に来てしまって今牢屋にいるという状況。どう考えてもこの先良いことが待っているとは思えなかった。 でも不思議と言葉は通じた。それだけが唯一の救いだった。これで言葉も分からなかったら、もう泣くしかなかっただろう。 いや、すでに十分に泣きたくはあったのだが、それよりもわからないことが多すぎて泣くに泣けなかった。 先ほど私を見て明らかに動揺していた街の人たち。銀に変わった自分の髪の毛。そして、 「銀のセイレーンって、何なの〜?」 我ながら情けない声で叫ぶ。 元の世界に今すぐ帰りたい。 でも此処に来た方法もわからないのに、帰る方法なんてわかるはずが……。 「あっ、あの曲!」 そうだ。私はあの楽譜の曲を歌った。そして気付いたら此処にいた。 (あれがきっかけとしか思えない!) でも、今手許にあの楽譜はない。 私は一度口ずさんだメロディーを思い出そうと頭を押さえ目を瞑った。――その時だ。 「歌っても無駄だよ」 突然声がした。 ぱっと目を開け私はそのままその瞳を大きく見開く。 今さっきまで誰もいなかった空間に、人が浮いていた。 でも驚いた理由はそれだけじゃなくて――。 (うっわあぁ〜!) 見事な金髪、見事な碧眼。 そして体格から男の人だとわかるが一瞬女の人と見間違いそうな、見事な美貌。 そんな人がこちらを見下ろし優しく微笑んでいるのだ。 完全に場違いなその美しい人に私は一時目を奪われてしまった。 しかしすぐに不自然さに気づく。 その人の身体は宙に浮いている上に、透けていたのだ。 「ゆ、幽霊!?」 思わず出てしまったその声は掠れたものになってしまった。 幽霊とか、お化けとか、そういう類のものがすごく苦手な私がそれでも恐怖に感じなかったのは、この人の柔和な雰囲気のせいだろう。 彼がクスリと笑って口を開いた。 「幽霊とは少し違うな。でも……少し正解」 声も素敵だった。“セクシーボイス”という言い方がしっくりくるかもしれない。 「僕の本体は別の場所にいるんだ。今は心だけ飛ばして君と喋っている」 言っていることの不自然さそっちのけで、私はその声と笑顔にまたしても見とれてしまっていた。 と、彼の額に刺青のような紋様があることに気付く。飾りかと思ったが彼の白い肌に直接描かれているようだ。 (って、見とれてる場合じゃないってば!) ハタと気付き私は慌てて訊く。 「あの、さっき歌っても無駄だって……」 「うん。無駄だよ。この世界に来るときに使った曲を歌おうとしたんだろう?」 「この世界って、じゃあ貴方は知っているんですか!? 私が別の世界から来たってこと!」 私は思わず歓声を上げていた。 この人は私を助けてくれるかもしれない! この知らない世界で、初めて光を見た気がした。……でも、 「全てを知っているわけじゃない」 彼が微笑を浮かべながら続ける。 「今君が歌おうとした曲は、こちら側に来るためのもの。帰ることは出来ないよ」 「なら、どうすれば帰れるんですか!?」 「簡単だよ。帰るための曲を歌えばいい」 「帰るための、曲……?」 私が呆けたように繰り返すとその人は満足げに頷いた。 しかし「簡単」と言われてもそんな曲は勿論知るわけがない。 そんな私の表情を見てか、彼は小さく笑った。 「その曲の楽譜は僕が持っている」 「え!?」 思ってもみなかった、確かに「簡単」な答えに私は一気に拍子抜けする。 でも、それがあれば帰れる! このわけのわからない世界から……状況から脱出できる!! 「お願いします! それ教えてください!!」 「うん。……でもね、条件があるんだ」 笑顔で言われ思わずガクリと肩が落ちる。 ……やはり、そう簡単にはいかないらしい。 この綺麗な人の笑顔が、急に意地の悪いものに見えてきた。 恐る恐る訊く。 「条件?」 「僕の本体を助けてもらいたいんだ。今ある場所に幽閉されていてね。助けてくれたらこの楽譜をあげよう」 「そ、そんなの無理です! 私だって今こんな牢屋みたいなトコにいるのに、どうやって……」 思わず大きな声が出てしまって慌てて抑える。外に聞こえたらマズイ。 「もうすぐ助けが来る」 「助けって!?」 (貴方が助けてくれるんじゃないの!?) 心の中で叫ぶ。だが、その人はまたニコリと意味深に微笑むと、 「僕の名前はエルネスト。これからよろしく。君が来てくれるのを待っているよ……」 そう言い残し、スーっと消えてしまったのだった。
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