驚いたなんてものではない。

 火種はどこにもなかった。本当に突然、王子の掌に炎が上がったのだ。

 慌てて視線を上げ、更に驚いた。

 普通では考えられないモノが視界いっぱいに映っていた。

 それは大きな白い翼。王子の背中に忽然と純白の翼が現れたのだ。

 その姿は、――そう、まるで天使のようだった。

 こんなものを見せられて驚かない人はいない。

 でも私は、その万人が覚えるであろう驚きとはまた違う意味で驚いていた。

 口を馬鹿みたいに開け、もう一度ゆっくりと燃える掌に視線を下ろした私に、王子が優しい声音で言う。

「物心ついた頃から、僕にはこういう力があるんだ」

 そしてふっと炎が消える。思わず「あ」と声が出てしまったが、王子の掌に火傷の痕は見当たらなかった。

「大丈夫だよ。自分の力で傷を負うことは無い。――君も知っているだろう?」

「え?」

 顔を上げて更に驚く。先ほどまで優しい鳶色をしていた瞳が、真っ赤に染まっていた。

 普通なら恐れ戦くだろうその変化に、でも私は……。

「アクア。君にも同じ力があるね?」

 言われてびくりと身体が震えた。元の鳶色の瞳に変わりつつあるその瞳から目が離せない。

「君にも“魔法”が使えるはずだ」

「魔法……」

 やっと出た言葉は掠れてしまっていた。王子はそんな私の両肩を力強く掴み、しかし優しい声音で続けた。

「そう、魔法だ。今は物語の中でしか存在しない魔法の力。でも僕にはそれが扱える。だからずっと同じ力を持つ者を探していたんだ。僕はずっと君を探していた。ずっと、君に会いたかった」

 無邪気に、本当に嬉しそうに笑う王子。

 ――私もずっと王子に会いたかったんです。そのためにここまで来たんです。

 そう言いたかった。でも。

「すみません王子。あの、頭が混乱して」

「あ、あぁ、こちらこそすまない。つい興奮してしまって」

 王子の手が私から離れる。

「もしかして、君はまだ力が扱えないのかい?」

「……私、は」

「アクア?」

 言い淀み視線を外した私を王子が不思議そうに呼んだ、その時だ。

 夕刻を知らせる鐘が街中に鳴り響き、その瞬間その端正な顔が焦りに変った。

「いけない。城に戻らないと」

 王子はフードを被り直すと私の肩にもう一度手を触れ、真剣な瞳を覗かせ言う。

「すまない、アクア。絶対にまた会いに来るから。あ、そうだ。これを」

 思いついたように彼は懐から先ほどの紋章の付いた短剣を取り出し、こちらに差し出した。

「え?」

「次に会う時まで持っていてくれ。必ず返してもらいに行くから」

 戸惑う私の手に無理やり短剣を握らせ、王子は不敵に笑った。

「君がどこにいても僕にはわかるからね」

 そして、イフリュード王子は背を向け走り去ってしまった。

 その姿が見えなくなって、私は腰が抜けたようにその場に座り込んでしまった。

(どういうこと……?)

 手の中の短剣を見下ろして、私はその手が小さく震えていることに気がついた。

 王子に言ったことは嘘ではない。今はただ頭が混乱していた。

 まるで夢の中で起こった出来事のように現実味が無かった。

 白い翼。赤い瞳。――魔法。

 そして今更ながらに王子の口から出た数々の台詞が蘇り全身が熱くなった。

 色々な思いが次々と溢れて、すぐにはまとまりそうになかった。

「どうしよう、これ」

 身体が熱いせいかやけに冷たく、そして重く感じる短剣をただ見つめて、私は途方に暮れた。






 結局、私はジニーさんのお店に向かっていた。

 私にはこの短剣を捨てる勇気も、持って逃げる度胸も無かったのだ。

 それを見越して王子は私にこれを持たせたのだろうか……。

「はぁ」

 知らずため息が漏れていた。

 今頃ジニーさんは開店準備に追われているだろう。本当なら手伝っているはずの時間だ。

 今更私が姿を現して彼女はどういう顔をするだろうか。

 ジニーさんは王子と知り合いのようだった。しかもとても親しげだった。

 そんな王子に無礼を働き、更には逃げだした私を、彼女はどう思っただろうか……。

 だから私は、彼女にこの剣を預けて都を出ることも考えていた。

 なかなか進もうとしない足を叱咤して、私は宿のある路地に出た。そのときだ。

「アクア!」

 その大声に驚いて視線を上げると、ジニーさんが店の方からこちらに走ってきていた。

「ジニーさん」

「良かった。もうここには戻らないのかと思ったよ」

 ほっとしたような笑顔で迎えてくれたジニーさんに、胸が熱くなる。

 私は帽子を外し頭を下げた。

「すみません。本当は戻るつもりは無かったんですが、その、王子からこれを預かって」

 短剣を差し出すとジニーさんの表情が驚きから喜びへと変わった。

「そうかい。やっぱりあんただったんだね」

「え?」

「戻るつもりが無かったなんて言うんじゃないよ。それは本人に直接返さなきゃいけないものだ」

 ジニーさんが私の手を優しく押しやって言う。

「あんたにも色々事情があるんだろうけど、王子があんたのことをずっと待っていたのは本当だよ。そのことはわかってやって欲しいんだ」

「……はい」

 私が頷くのを見て、ジニーさんは満足げに微笑んだ。

「おっと、そろそろ開店時間だ」

「あ、手伝います! 手伝わせて下さい!」

「そうかい? 昨日楽しちまった分、一人だとちと不安でね」

 悪戯っぽく笑ったジニーさんに私も笑顔を返した。

「精一杯働きます!!」




 ――彼女になら、全て話せる気がした。

 そして、イフリュード王子にも。

 まだ不安はあるけれど、私は決心した。二人に全てを話すことを。






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